Destiny

それぞれの道へ…














「……」


無言でカルテを閉じ、彼に向き合う。

この瞳を見るのも最後。
彼の姿を見るのも………たぶん、もうない。

ほっとしている自分がいる。
もう彼の瞳を見なくてすむから。
彼の目は………真っ直ぐすぎて、怖い。
全て見透かされそうな瞳に、あたしは昔からとことん弱かった。

見破らないで。
気付かないで。

「行かないで」と訴える自分がいることを。



―――傍にいて欲しい―――


そんな虫の良すぎる考えを持っているあたし。……たぶん、彼を好いていたあたし。
それが愛とか恋とかいう感情かどうかはよく分からなかったけど。

いつも傍にいたあたしたち。
時に旅の供として。
時に戦いの戦友として。
時に……保護者と庇護者として。

その曖昧で不安定な心地良い関係が好きだった。



名の付けられない二人の関係と、自分の感情。


……だからこそ、打ち明けられた彼の想いには応えることができなかった。

でも、あたしは逃げ場がなかった。
気付かなかった、いつの間にか戻れない所まで来ていたことに。
………気付けなかった。あいつは、とうの昔に変わっていたことを。
彼は……笑顔であたしを放さなかった。

どんなに盗賊いびりに行ったとしても。
どんなに彼にワガママを言ったとしても。
どんなに…危険な目に遭わせたとしても。

最後には全て、あの笑顔で許してしまうのだ。





そして―――

それが苦痛になるのはたいして時間はかからなかった。

何故、何も言わないの?
あたしの何処がいいの!?
なんで…っ!何も言ってくれなかったの?なんであの夜、突然言ったの?

わからなかった。
わからなかった。
もうわからないことだらけっ!!

あたしは、こんなぐちゃぐちゃした感情はいらない。
ドロドロしたり、どきどきしたり。割り切れない事ばかり。
毎日が煩わしい。
傍にいると息が詰まりそうになる圧迫感から一刻も早く解き放たれたかった。

幼かった、幼すぎたあたし。


だからあんな奴らの戯れ言に乗った。
たぶん、それは都合が良かったから。

お粗末な美徳として映るであろう、陳腐な罠。
そもそもあたしはそんなもの、はなから信じてはいなかった。

ただ、なんでもいいから彼と離れる口実が欲しかったのだ。
あたしが敵前逃亡するなんて、あたし自身のプライドが許さなかった。
彼の前から消えれば、それだけで彼は魔族とのゴタゴタから解放される、悪くはない条件だった。
むしろ願ったり叶ったり。

早い話、あたしはそんな事でしか彼の笑顔から逃げる術がなかったのだ―――



でも今もし彼に同じ事を言われたら――――
あの瞳で見つめてくれるなら――――

あり得ない事だけど、あたしはゆっくりと瞳を閉じる。
そうね…

今のあたしなら――――――












一拍おいて、瞳を開ける。

その先には、あの時とほとんど変わらない彼の姿。
蒼い目。
淡いブロンドの長髪。
彫りの深い端正な顔立ち…

そして何の感情も読めない、深い瞳。


「……」

あたしは冷たい蒼穹の瞳を見つめ返し、まるで台本でもあるかのように淀みない台詞をすらすらと述べた。


「怪我は快方に向かっています。もう大丈夫でしょう。退院を許可します。
しかしまだ傷の方は完全に塞がっているわけではないので、くれぐれも無理はなさらないでください。鎮痛剤と包帯の替えはミルアに指示しています。受け取り次第ここを去って結構です。……では、お大事に」

軽く頭を下げ、彼に退室を願う。
視線を下げたあたしの目に映ったのは、彼の膝で堅く握られ、わななく拳。

「…………っ」

どうしようもなく胸が締め付けられた。

なによ……自分で望んだくせに、まさか傷ついてる?
確かめてみたいけど、ここで彼の瞳を見てはいけないような気がした。


あたしは気づかない振りをして椅子を回転させると、彼に背を向け、再びカルテを広げる。

無言で彼が部屋から出ていくまで。
彼の足音が聞こえなくなるまで。
気配が完全に消え去るまで―――

あたしは広げたカルテに視線を落としていた。
耳を澄まし、神経を研ぎ澄まして分からなくなるまで彼を追う。



肺に溜まっていた息を一気に吐きだす。
おもむろに肩の力を抜いて、全身が弛緩してゆく。
その拍子にばさばさ、と白紙のカルテが床に落ちる。

「自分勝手な奴…」

ポツリと呟いた言葉は自分に対してか、彼に対してか。



自分でも分からないまま、窓から流れ込んできた風に言葉が紛れていった――










         §§§§§§§§§§§§§§§§§§










懐かしい外の空気。
病室と同じ柔らかい風。

―――独りの空間。

何処に行けばいいんだろう。
今まではたった一つだけ目的があった。

リナニ、逢イタイ―――…


これを失った今、自分はどうすればいいんだろう……


モウ一度アイタイ。
イツデモアイタイ。

ズットズット傍にイタイ―――


歩き続けることに疲れたから道は一つだけ。
本当は彼女に再会したあのとき、言いたかった事は山ほど逢った。

けれど、あの時、少女の深紅の瞳を見た瞬間、何かが音を立てて壊れた。
無性に腹立たしくなった。
目の前の少女を許せなくなった。
探している時はそんなこと考えもつかなかったはずなのに、いざ再会すると、言いようのない怒りに体が支配されていた。

本当は笑いたかったんじゃない。
泣けるものなら泣きたかった。
そして、全部洗い流してから笑いたかった。



《 ……ずっと探してた。あの日から、ずっと… 》


むやみに夜起き出して、夢遊病者のようにリナを探した事も。
わざと盗賊が居る森の中で野宿して、攻撃呪文の音に耳を澄ましていたことも。
ゆく先々で聞き込みをしたことも。

全部、笑い話のように打ち明けたかった。


一介の傭兵崩れの自分が、どんなに必死でたった一人の少女を捜したのかを。



《逢いたくて、逢いたくて、でも何処にもいなくて…諦めかかって、……疲れ果てて死を覚悟したとき……お前が現れた。》


魔族に手傷を負わせたのと同時に、自分もかなりのダメージを受けていた。
特攻型の自分をサポートする司令者もいなければ、つねに気遣いながら剣を振るう味方もいなかった。


…………いつ、死んでも良かった。




………………死ニタカッタ…………………殺サレタカッタ…………………




ただの魔族などではなく、その人の為に命を捧げても惜しくないと思った、
ただ一人の少女の手にかかるなら俺は本望だった。


《なんで今頃……………今更、俺の前に現れた?
 ……どうしていっそのこと、俺を殺して行かなかった?
 ――――そうすれば、俺はお前だけを思って逝けたのに……》

全身から噴き出しそうになる怒りをやっとのことで押さえつける。

――狂ってる。

たかがあの小生意気な少女のせいで。
だけどこんな俺を救えるのはきっとお前だけ。



そのまま顔を覆い、血を吐くように呟く。

「…タスケテくれ…………リナ……」


それを聞いてくれる相手はもう目の前に居ない。
これからも、逢えない―――

もう、想いは届かない―――

俺は、戻れない。










「あ〜やっと見つけましたよぉぉ〜〜!
 待ってて下さい〜って言ったのに、勝手に出て言っちゃって………
 ひっどぉい…治療費、踏み倒す気ですね〜」

突然後ろからかけられた声に覆っていた手を退け、無感情な瞳を向ける。

戻れない。
だから、これが今の自分。


「……金などない」
「そんなぁ…」

そもそも、生かしてくれと頼んだ覚えもない。

泣きそうになるミルアとかいう女の視界を横切る金色の線。




   《ガウリイノ髪ッテスゴク綺麗ネ。》




不意に蘇るアイツの笑顔。
凍った心を溶かすほど甘くて残酷な思い出。

忘れたい。
忘れたい。
忘れさせてくれ…っ

もう、許してくれ…。


「俺の髪をやる。それでを売れば幾ばくかの金にはなるだろう?」
「そんな髪の先まで怨念が染み込んだようなもの、怖くて入りません〜」
「……」

じゃぁ、どうしろと?
視線だけで問い掛ける。

目の前にはむぅ〜と唸る女。
こいつは明日もアイツの傍にいられるのに。
俺だけが居られない。



許せない…許せない、赦せない……っ!


「……ろされたく、なければ…………消えろ…っ」


長い前髪に隠された狂気の瞳。

しかし、相手がそれに気付く前に、


そこに立ち塞がる影が現れた。








続く