夜と朝の狭間で |
「あ、ガウリイ、お帰りなさい。思ってたより遅かったわね〜」 ドアの閉まる音を聞きつけて、ぴょこんと栗色の頭が顔を出す。 ダイニングにあるカウンターキッチンにいるのは、当然リナ。 今日はいつもより帰宅時間が早かったようだ。 「おう、ただいま。いやぁ、ルークに付き合わされて散々たかられたよ」 「ふんっ!あの馬鹿ザルに奢らせられるようじゃ、まだまだねっ!!」 部屋中に漂うのは食欲をそそるイイ香り。 もちろん腹は膨れているが、そんなものお構いなしに鼻孔をくすぐり、食欲が湧いてくる。 「あ〜、なんかうまそーな匂いがするな〜〜」 「とーぜんよ!なんたってこのあたしが作ってるんだから♪ 今日はリナちゃん秘伝のデミグラスソースを使って、 寒い日にはことこと煮込んだビーフシチュー♪」 「…エアコンで快適温度設定してあるくせに…」 「何事も気分よ、気分」 ちっち、と指を振るリナの出で立ちは、薄ピンクのエプロン姿。 手に持ったお玉で鼻歌を歌いながら時折かき混ぜ、味見をする。 「ん〜♪イイできvv」 「オレの分もあるか?」 「え? 食べてきたんでしょ?」 「そうだけど…。リナの手料理は別腹だ♪」 ぽみゅっ 一瞬でリナの顔が真っ赤にゆで上がる。 それをオレに悟られぬよう顔を隠すように下を向くと、小声でぼやく。 「――ったく、どこでそんなお世辞まで覚えてきたんだか…。」 リナの地獄耳には劣るが、それでも人よりは性能がイイ耳がリナの小言をしっかりと捉えた。 「あ、オレのこと信じてないなぁ〜。ホントのホントだぞ? オレはお前さんの事ならなんでも分かるのに、リナはオレのこと分からないなんて、すっげぇ悲しいなぁ〜〜。」 意地悪く覗き込むようにリナの顔を窺うと、キッと睨み付けてくる強い眼差し。……というよりも、これは照れ隠しだな。 「そーゆーむやみやたらと整った造作で歯の浮くセリフはかないのっ!!」 噛みつくように言うリナ。 あ、耳まで赤くなってら。 「いいじゃないか、ほんとの事だし」 にぱっと笑うと、どもってしまうリナ。 こうなると彼女に勝ち目はなかった。 過去の経験上、彼女もそれを知ってたので、頭の切り替えも早い。 ぱっとカウンター越しに覗き込んだオレから離れ、皿を食器棚から取り出しに掛かる。 「ま、まぁいいわよ。朝の分も、と思っていっぱい作ったしね」 彼女は手強い。 いつもオレが踏み込むと、その分下がる。 そして、オレが一歩引くと……そのテの事にはとことん鈍い彼女が不用意に迫ってくる。 はっきり言ってナマゴロシの状態だった。 オレたちには、これが限界。 ――――今は、まだ――― 「じゃ、オレの分も頼むな♪」 まだ冷めない顔の赤らみを必死に隠そうとするリナ。 「んん〜ジャガイモ…煮えたかな……?」 などと言ってオレから少しでも距離を置こうとする。 それでも、手を伸ばせば届く位置。 狂おしい目で彼女を見つめ、居心地悪そうなその様子をじっくりと眺めると、軽い口調で笑い飛ばす。 「ンな事言って、一人で全部食っちまうなよ?」 まだ黙々と味見を続けているリナにたわいもないことで釘を刺しておくと、リナも安心したように肩の力を抜いた。 「はいはい、それより早く着替えてきて食べましょ?」 「おうそうだな!」 ――――例えば。 こんな様子が新婚さんみたいなやりとりだとか、ルークがみたら指さして笑うんだろうな。 リナが必要以上に幼く見えて、オレが驚異的スピードで身長が伸び、今は体つきも断然リナとは違っていた。 リナは変わらず幼い。 打ち解けて初めて知った彼女のまま。 それは愛らしく可愛い、照れ屋で意地っ張りな少女の顔。 彼女は毎日、明るく活発に仕事をこなす。 それは紛れもなく仕事が好きなようで、時々オレは放っておかれてしまう時もあった。 それでも毎日朝晩、食事を共にしてくれるリナ。 不経済だから、と毎朝お弁当を作ってくれるリナ。 時間があれば買い物や、ドライブにも連れて行ってくれるリナ。 秘書課ってそんなに暇なのか? と、ルークに一度問われたことがあったのだが。 そんな事は決してない。 少なくとも、リナに限っては。 彼女が自室に籠もると、夜遅くまでパソコンや書類に目を向け、そして深夜まで誰かと電話をしていることが多い。 今晩も、そうだ。 深夜になり、微かに空いていたリナの部屋を覗き込むと、 疲労に睡眠不足も重なり、ベッドには寝ず、机の上に突っ伏して寝ていた。 忍び足手で歩み寄ると、横に押しやられたパソコンが目に付く。 それは画面焼け防止になっていて、もう半時ほどリナはこれに触っていないのが分かると、電源を消そうとしてマウスに触れる。 「…………」 そこに映し出されたものはありきたりの報告書。 そう。報告の対象としてしか見られないモノの……。 目を走らせれば、そこには彼女らしい文章が綴られている。 実直で、洞察力に富み、それでいてある一面にはからっきしな彼女らしい文章。 しかし、その内容に醒めた薄ら笑いさえ浮かべてしまう。 馬鹿な奴らだ。 こんなものを義務づけるなら、この世で一番彼女が不適任だろうに。 いっそ、オレが自分で書いてやろうか? ……いいや、まだその時期じゃない。 彼女に悟られないように、逃げられないように。 従順で愚かで、彼女の庇護が無ければ生きられない無力なガキを演じていた方がいた方が得策だな。 そのまま放置して、辺りを見渡すと、これが彼女の本職であろう企画書やら報告書が山のようになってる。 クソ親父のヤツ、リナを過労死させる気じゃねぇだろうな? リナを紹介した日以降はまたも顔も見ていない父親。 …いや、今まで何度かパーティに家族ごと引っ張り出されて、もしかしたら見かけたかも知れない。 が、どこぞやの令嬢やら奥様方に囲まれ、身動きできずにその場を終えたのだから、やはり見ていないのだろう。 その父親と毎日のように顔を合わせ、仕事をこなし、そして家に帰ってきてはオレの為に食事を作る。 無理、させてるな。 無力なオレ。 きっとリナの負担になってる。 せめてもの罪滅ぼしに、そっとリナを抱き上げ、ベッドに運ぶ。 数年前まではオレがその立場だった。 今は、軽々とリナを抱き上げ、そして小さいとさえ感じる華奢な体を優しくベッドに寝かせられるまでになった。 『いいじゃねぇか、母親でも――――』 反芻するルークの声。 甘い、甘い誘惑。 『血は繋がってないんだから――――』 出会って初めの頃に言われたリナ自信の言葉。 「うん…」 寝返りをうつと、吐息を漏らすリナ。 化粧をしていない彼女はより幼く見えて、無垢な寝顔。 いままで何度となく見てきた寝顔のはずなのに、何故か今日はどうしても目が離せない。 ふっくらとした紅い唇。 どんな感触がするのだろ? 彼女と触れ合えば……どんな気持ちになるんだろう…? 頭の奥で警告音が鳴り響く。 このままでは引き返せなくなる、と――― それでも。 その誘惑に勝つ術を持たないオレはただ、 その瑞々しく赤い唇に吸い寄せられるように、そっと。 彼女のしっとりとした唇に辿々しく自分のそれを重ねた。 それは今まで触れたことがない感触。 極上に柔らかく。 彼女の香りがオレの鼻孔をくすぐって酔わせる。 それは、眩暈がするほどの幸せで。 甘く、切ない、背徳の味がした――――――― <続く> |