夜と朝の狭間で























「そろそろよい子は寝る時間よ?」

「子供扱い、するなよなぁ?」

「十分子供だと思うけど?」


眉根を寄せて抗議するオレを適当にあしらい、リナはノートパソコンに向かったまま、視線も向けずにちょいちょいとドアの向側を指していた。

もう彼女はこの家の間取りを把握しているようだ。





ここは12階建てマンションの最上階。

他階は他人に貸してはいるものの、権利は父のものであったそれ。

最上階は4LDKの間取りでリナが指した奥手には寝室がある。




オレが食事を終えると大してやることもなく手持ち無沙汰で居たのに対し、彼女は夕食が終わるとすぐ仕事にとりかかり始めた。


先ほどまでテーブルの上にあった食器の代わりに、

彼女が持ち込んだノートパソコンと、食後に煎れた二人分の紅茶。

そして、オレの肘。


リナに促されたのは、することもなく頬杖を付いて、液晶に向かうリナを見ていた矢先のことだった。






「オレがここに居ちゃ邪魔か?」

「ん〜?んーん〜…」

オレの言葉そっちのけで画面と向き合いながら唸ると、

しばし間をおいて『そうでもないけど』と言い返してくる。


「ならもう少し」

「あたしの仕事っぷりに感嘆してるのはいいけど、退屈じゃない?」


今度はぱちぱちとブラインドタッチでキーボードを打ち始めるリナ。

「テレビでも見てたら?」

「あー、オレ、あんまりそーゆーモン見ない」

「…可愛くないわね〜」

「悪かったな、扱いづらくて」

「分かってるじゃない?」


そう毒づくオレに、仕事に取りかかってから始めてリナがこちらに視線を投げかけ、意味ありげに小さく微笑んだ。


「ま、生意気だけど嫌いじゃないわ」


真正面から言い切られて。

オレが真っ赤になるのを見ると、彼女の紅い口の端がほんの少し横に広がる。
片手で顔を押さえ隠しながら、上目遣いに虚勢を張ってねめつけた。


「からかって楽しいか?仮にも再婚相手の息子を」

「いいじゃない、血なんか繋がってないんだから」

してやったりと笑みを浮かべ、また液晶画面に視線を戻すリナ。

本当に妙な女だ。

オレがどんなに仕掛けたって敵わない。

それ以上の仕返しをしてくる、本当に意地が悪いオンナ。


……新鮮な、おんな。


この年になって、彼女が母親なとど思えるはずもない。
その代わりに、彼女は自分にとって一番近い女性になった。


突然転がり込んできた少女と見紛うばかりの女性。

実際、自分と幾つも離れていないのに、自立し、仕事を持つ彼女。

閉鎖的なここで育てられたオレとは全く違う世界を見てきたリナ。

若くして責任を背負うまでに成長し、自由に生きてきたリナ。



口には決して出すつもりが無いが、ほんの少しだけ羨ましい。






そうして暫くは、飽きずに眺めていたものの、やはり満腹のオレは次第にうとうとしてきた。



「ほら、そこで眠りこけないうちにベッドに入りなさい」

「んー…そうだな」

ごしごしと瞼を擦り、夢心地のまま立ち上がる。

いっそのことこのまま眠りたいのは山々だが……

またリナに子供扱いされるしな。


「お休みなさいガウリイ」

「おう、お休み、リナ」

もしかしたら始めて交わした就寝の挨拶。

それまではロクな会話すらなかったはずなのに、その言葉は驚くほどすんなりと交わせた。


どこかの場面で。

既視感のあるそれを思い出せないうちに寝室に入る。

パタム、とドアが閉まり、廊下の明かりが遮られると、そこは真っ暗な四方の部屋だった。





痛いほど耳につくように静まりかえった室内。

息苦しいまでに籠もった密室。

眠気が一気に覚める。

今までが全て都合のいい夢であったかのような錯覚――――













それはいつも、オレが死んだ母親に閉じこめられていた場所だった。





今閉じたばかりのドア。

以前はどんなに強く叩いても、叫いても、その扉から明かりが漏れることはなかった。

いつの間にか頬に流れ落ちた冷や汗を拭うと、恐る恐るノブに手を掛ける。



―――カチャリ、

と軽い音を立てて容易く開くそれと共に漏れてくる明かり。
強張っていた全身が弛緩するのを、疲労にもにた脱力感を持って感じた。



頭だけを廊下に出すと、ダイニングから聞こえるのは、先ほどまで夢心地で聞いていた、彼女がキーボードを叩く音。

安堵感に息を吐くと、今が現実であることを知る。




このドアが開くことを。

彼女が今傍にいることを。

身をもって噛み締める。



オレはあの頃のオレじゃない。

あの女に怯え、閉じこめられるオレじゃない。

空腹で許しを請うたあの頃とは違う。


もう、そんな必要はない。

あの女は死んだ。

今は、リナが居る。


もう、安心してもいいんだ。


「あ〜こら、ガウリイ。まだ寝てなかったのね〜〜」

気配でも感じたのか、見えないはずの向こうからリナが呼びかけてくる。



ほら。ちゃんとリナが居て、オレを呼んでくれる。


「いや、今寝るところだよ」


なんでオレ、こんなに泣きそうな声出してるんだ?


「ならいいけど、風邪ひかないように温かくして寝なさいね〜」


ほら。オレの事を気にしてくれるヒトが居てくれる。


どこかすくずったいような気持ちになる。
ひび割れたオレの心が生まれ変わろうとしている。

何かが胸につかえた。


……嬉しくても、切なくなるんだな。
……温かくても、無性に泣きたくなるんだな。


今はまだ、ドアを閉じる勇気はない。

少しだけ開けたままにすると、オレは安堵するように床に丸まった。
ベッドに横になればいいんだけど、いつもこうして寝ていた癖が抜けない。

今はまだ、こっちの方が落ち着く。


あの頃の自分を守る為の習性。

けど、もうそんな必要もない。


突然髪を引き抜かれそうになるほど強く鷲掴みにされることも、
痣が出来るまで殴られる心配もない。




そして、思い出す。

あの温かい挨拶を交わす場面を。
あれは小さい頃に読んだ物語。

幸せな家族の何気ないやりとりだった。

貧しくても温かい思いやりのある一家のお話。

そんなおとぎ話のような内容。

あの時は冷めた目で見下していた。

そんなもの、この世にはない、と。

そんな架空の家族など、この世にあるものか、と。



…あったんだな。本当に。

そしてオレは、吸い込まれるように夢の中に入って行った。








深い眠りに就いたオレの傍に、誰かの気配がする。

…や、やめろ。いやだ、来るな…っ

オレを…っ傷つけるなっっ!!

無意識に硬くなる体に、そっと温かい手が触れる。

安心させるように何度か頭を撫でてくれる。


ほうっと、息を吐く。

…優しい手。…ダレのテ?



「バカ…風邪引かないでって言ったじゃない」

…優しい声。…ダレのコエ?



浮遊感と共に、ふわりと知らない甘い香りがして。

ひんやりとして弾力性のある何かに下ろされる。

そっと掛けられる薄手の布のような感触。


少し邪魔だと思っていた髪が誰かによって丁寧に払われる。


…優しい仕草。…ダレ?


「寝顔は可愛いのにね」

すくすくと小さく笑って囁く声。

…優しい吐息。…ああ、きっと彼女の。




「いい夢を」


囁きと共に、離れていこうとする人の手をぎゅっと握る。

行かないで。

ここに。

ずっと、ここに。





相手の戸惑う気配。


視線を感じて。


ため息にも似た、微かな吐息を感じた。














きゅっと。
包み込むように――――――握り返される手。











「今日だけだかんね、ガウリイ」


念を押すというのではなく、言い訳がましく呟いて。

仕方ないとため息吐くというより、気合いを入れて。









そっと温かいものがオレを包んでくれた。


温かい体温。…これはリナの。



髪を梳いてくれる手が優しくて。

じんわりと伝わってくる体温が愛しくて。












オレは階段を一歩ずつ、踏み外していった―――――







<続く>