『遺書』 vol.8




















 
(まだ夜明けにならないな。リナはそろそろ目を覚ましたかな)
(馬車の約束は取り付けたし)
(でも、あいつが大人しく医者に掛かってくれるかどうか……肝心なトコでは聞き分けがいいやつだけど。なんつーかこう、男には分らん微妙な具合の悪さだけにどうゆう反応するか読めないとゆーか)
(勿論調子が戻らないなら引き摺ってでも医者に診せる!)
(しかし、あの女にはああ言ったけど)

 ……あのリナが仕事を途中で降りるわけないしなあ。
 そんなことを考え込みながら館の真っ暗な廊下を歩く途中、ふとオレは首を傾げた。

「あれ?」

 視界の端っこで何かが動いた。
 慌てて思考から意識を引き戻すと、廊下の横のドアが、薄く開いたまま風に揺られている。
 誰かがきちんと締め忘れたような感じだった。

 なんとなく、浮いた扉に近付いてあるべき場所に収めるようとする。
 その時、なにかがオレの心に引っかかった。
 何だ?何か変な感じがする。

(行きしなにこのドアは開いてなかった……ような気が微妙にする)

 記憶には全然自信がないが、こういう時の勘は外れたことがない。
 となれば、オレが通った後に誰かがこのドアを開けたことになる。誰だ?
 屋敷に居る人間は、限られている。
 さっきの女がオレが知らない間にここに来るのは無理だし、そういえば今、何人ぐらいが屋敷に人がいるのか。

(まさか、リナ……?)

 あいつがなにか思いついてあの身体でまた捜索を始めている、というのはありえない話ではない。
 気を失う前にも、なんだか依頼の手掛かりを掴んだみたいなことを言ってたし。
 えーと(汗)内容は確か……グレイさんのよく行くところを探せ、だっけか?
 思い出せば思い出すほど、なんだかあいつが屋敷をウロウロしている姿が目に浮かぶ。

「……ったく。オレがハゲたら絶対リナのせいだ」

 我ながらの心配性に呆れながら、押し込むつもりだったドアを引く。
 真っ暗な先に月明かりが漏れこんで、足元に真っ暗な階段が下へ伸びているのが見えた。
 ここは地下室の入り口らしい。
 ぷんと酒の香りがするので、酒の保存用の部屋だろうか。
 そう思うと同時に、あの女が大袈裟に語った話が急に思い出される。

『沼地の……地下室に妻の遺体が置かれた、殺人鬼の屋敷』

 聞いただけで分かる作り話だ。
 地下に死体なんか閉じ込めていたら、どれほど異臭が漂うと思っているんだ?
 足を踏み出して段を踏んでゆくと螺旋階段が一度カーブを描いて、あっけなく終着点を示した。

「……?」

 降りるにつれて、下方から漏れる明かりが後ろに影を引き始める。
 まだ誰かいるらしい。オレは階段を最後まで降りずに、足元の地下室を覗く。
 暗い地下室に、ぼうっとランプの光りが点っていた。
 ここは物置兼酒蔵のようだった。
 古めかしそうな家具や箱が並んだ奥に、片腕でも抱えられそうな小さめの樽が10個ほど並んでいる。
 アルコールの匂いはそこから漂ってきていた。

(男か。グレイ……じゃない?)

 真ん中あたりの樽の脇に立つ人物の背格好に目を凝らす。
 ランプを壁の窪みに置いたそいつは、樽の上の栓を抜いたところのようだった。
 それから、その手は懐から小さな包みを取り出す。
 そいつが眉を顰めた俺に、気付くはずもなく。
 そいつはそのまま……包みを開いて樽の中へと傾ける。

 その意図は、オレにすら明白だった。

「……おい」
「!!」

 包みの中身がが手から滑り落ち、音もなく樽の中へと入る。
 蒼白な顔で振り返った顔は、オレを認めた途端激しく歪んだ。
 見知った男だ。

(食堂で一回リナが質問していた男だ。……ここで下男をしているとかいうやつだ)

「何をしている?」
「余所者に、偉そうに言われる筋合いはないですよ。ガブリエフさん」

 そういう相手の名前を、記憶の中に探す。
 初めて顔を合わせたときに、睨むような嫌な目つきで見ていたので覚えていた。
 確かそう……レイスといったはずだ。
 その青年は今や、オレに激しい憎悪の視線を投げつけてくる。

 むきだしの感情が肌に伝わって、唐突にオレは納得した。

「おまえが、部屋に蛇を入れたんだな」

 何故、会うのは二度目のこいつにそれほど憎まれるのかは知らないが。

「言いがかりだ」
「じゃあ今晩の、台所の炉は誰がやった」
「なんのことですか」
「……あいつを怪我させたのは、お前かって聞いてるんだ」
「は?」

 胸が焦げ付く。
 相手は喧嘩のやり方も知らない素人のガキだと分かるのに、苛立ちが湧き上がる。

(抑えろ)

 脳裏には、シーツの上の華奢なリナの手が浮かんでいた。
『だいたい、あんたは過保護すぎんのよ!』
 そんなこと知ってるさ。
 でもお前さんのこと心配せずにはいられないって、そっちこそ、どうして分かってくれないんだ?

「……グレイさんの命を狙ってるのかと思ってたが」
「はっ」
「オレやリナもお構いなしに攻撃してくるってことは、お前何が狙いなんだ?」
「濡れ衣を着せないでくれ」

 言葉だけは媚びるように口にしながら、レイスが笑った。
 嫌な嘲りの響きが、地下室中に響く。

「とぼけるな」
「色々言ってるけど、何か証拠があるのかよ?」
「証拠?」
「勝手に犯人扱いじゃたまらない」
「そこの樽の酒を調べてみたら分かるんじゃないか」
「ふん……主人の酒をちょっと失敬していただけで、余所者にごちゃごちゃ言われる筋合いはない。どこの使用人でもやってることさ」
「何か入れてたように見えたんだが」
「あんたに、そう見えただけだろ?」
「じゃあリナかグレイさんに調べてもらう。お前がやってない自信があるんなら平気なはずだよな」
「あるさ。当たり前だろうが!!だいたい、何の得があって俺があんたらの命を狙わなきゃなんないんだ?」
「さあ、分からん」
「はん、いい加減なもんだ。お貴族さまが気楽に言ってくれるぜ……で?」

 こうしたらあんたどうする?
 にやりと続けた男に気づいて、はっとする。

「……おいっ!!」

 階段を飛び降りたがもう遅かった。
 レイスが押した手前の酒樽は、床に転げ落ち……鈍い音が響いて、床に叩き付けられたタガが、弾けとぶ。
 それはさっき、この男が何かを入れていた樽だった。
 密室に篭る濃厚なアルコール臭を吸い込むと、一瞬くらりとする。

(甘く見過ぎたか?)

「ほら。あんたが脅すせいで、怖くなって手が滑っちまった。後でグレイの旦那に怒られちまう」
「……下手な言い訳だぞ」
「はん。こうなったら、お前の言葉なんか誰も信じやしない。これからどうするんだ?探偵さん」
「生憎、ものを調べるはオレの役目じゃないんだ」

 誰だなんと言おうと、こいつが樽に入れたのは間違いなく猛毒に違いない。
 それから、

(オレの部屋に蛇なんかを置いたのも)
(始め、砂糖袋をわざと置き違えてグレイに毒を飲ませようとしたのも)
(どうやってか知らないが……ストーブに細工してリナを怪我させたのも)

 この男だ。
 少なくともこいつに害意があることだけは、断言できる。
 あとで床をグレイに調べてもらえば何かはわかるだろう。わかればいい。

「こんなことすれば、自分が犯人ですって言ってるようなもんだろう。自警団にでも何にでも、早く自首しろ」
「自警団はオレを捕まえたりしないさ。味方がいるからな。お前のほかにも、貴族はいるんだぜ?」
「……早く、自首しろ」

 それにオレは、証拠とか、政治とかそんな難しい話は興味ない。
 理屈なんか通用しない酷い事件があっさりと大勢の人間の命を刈り取ってゆくこの世界で、自らの手で他人を害しておきながら、それでも自分だけは理屈やコネで救われると思っているこいつの感覚がただ奇妙なものに感じられた。
 床にぶちまけられた酒を見て、勝ち誇ったように笑っている、憎々しげで、揶揄に満ちたレイスの声。

「さっさとこの屋敷から出ていきやがれ。お前らがここに来たから、あの人が」
「……あの人?」
「煩い煩い煩い煩い!!!」

 こいつは、どうしてオレ達を憎んでいる?
 訳が分からないが、憎しみとはそういうものだともオレは知っている。
 だが、どんな理由であれ人を、リナを傷つけたこいつをこのまま見過ごすつもりはない。

 完全に常軌を逸したレイスに近づこうとすると、じりじりを後ずさりをして歯を剥き出された。

「来るな!俺をどうするつもりだ、この野蛮な傭兵がっ」
「あぁ、オレは傭兵だ。貴族じゃない」
「来るなって言ってるだろうがッ!証拠もなしに余所者が暴力を振るってみろ、牢に放り込まれるのはそっちだぞ」
「……」

 乱暴な余所者。理不尽な暴力の担い手。
 それは傭兵のひとつの側面だ。
 オレはその一人で、その力を正しい、綺麗なこと以外に使ったことがないなんて言うつもりはない。

「来るな!」
「と、言われてもな」

 何を言っても通じない。
 そう分かっていながら、オレは呟く。
 逃げ惑う男を追い詰めながら、胸に渦巻くどす黒い感情を抑える。
 この男を痛めつけてやりたいと衝動を喉の奥に押し込め、もう一歩進んだ。

「来るな来るな来るな来るな来るな……」

(我慢しなきゃならんような、相手か?こいつが)

『ガウリイ』

 頭に浮かぶのは、彼女の声。
 それだけで、不安と汚くどす黒い想いは四散する。

(!)

 そこであることに気づき、オレは肩を竦めて溜息を吐いた。
 緩んだ頬を指で掻いて誤魔化しながら、口を開く。

「さぁな。疚しいことがあるなら、自首した方が楽だと思うが。火炎玉か、もしかするとドラスレ食らうかもしれんぞ?」
「な……!?お、脅す気か」

 そういう訳じゃないんだが、と言い置いて。
 アルコール臭でむせ返るような地下室の隅の男に、告げてやった。

「オレの相棒の言葉で、こーゆーのがあるんだが。なぁ?」

 背中の階段を降り返ると、気配でわかったとおりの状況がそこにあった。
 呆れてもういちど溜息をついたオレの、不安をすべて拭い去るように。

 華奢な足。
 階段の遥か上段にいるのに、楽に視線の会う背丈。
 片腕を腰に当てた、妙に自信に溢れたポーズ。
 薄暗い中でも光が差したように見える、いつもの眼差しがそこにある。

「悪人に人権はないっ!…でしょ?ガウリイ」

 すっかり顔色を取り戻したリナが、不敵に笑ってそこに立っていた。










to be continued …