Sinner
『罪人は十字を背負いてただ忍従の道を行く』







7 悪魔の囁き



 月明かりに照らされた街に、一人分の足音が響く。
 オレは一人、街に満ちた静寂を蹴散らすように走っていた――ゼロスにさらわれたリナを探して。
 万が一リナが戻ってきたときのためにアメリアを宿に残し、オレとゼルガディスは二手に分かれて街に出た。
 魔族のゼロスは空間を渡り、一瞬にして遠くまで飛ぶことができる。もうこの街にはいないかもしれないと思うと、ぎり、と心臓が痛んだ。
 しかし、足は止まらなかった。勘に任せるままに通りを駆ける。



 オレが立ち止まったのは、走り続けて30分ほど経った頃だった。
 そこにあったのは、街外れの寂れた教会。
 街の中心に新しい教会が建っていたから、ここはもう使われていない建物なのだろう。
庭の草がのび放題にのび、尖塔にはめ込まれたステンドグラスは割れている。
 オレはゆっくりと建物に近づき、軋む扉を押し開いた。澱んだ空気が、外の新鮮なものと入れ替わろうと、かすかな対流を生む。
 薄い月光が、暗い礼拝堂を青く照らし出していた。たくさんの椅子と飾り気のない祭壇が薄明かりに浮かび上がり――その祭壇に横たわる小さな影に、遅ればせながら気付く。
「リナ!」
 整列する長椅子の間を縫い、駆け寄る。
 埃の厚く積もった祭壇に、葬式よろしく横たえられていたのは、ゼロスにさらわれたはずのリナだった。窓から差し込む淡い光の中、その肌はぞっとするほど白い。
 背筋に冷たいものが走る。
「リナ!? 大丈夫なのかリナ!」
 触れた頬は、しかし嫌な予感を払拭するように暖かかった。唇に指を当てると、その呼吸も規則正しい。
 安心しきってへたり込みそうになったところで、背後にイヤな気配が生まれた。
「お早いお着きですねえ、ガウリイさん。相変わらずの過保護ぶりに、僕も感心しちゃいました。
 そんなにリナさんのことが心配なんですか?」
「ぜ〜ろ〜す!」
 オレはわなわなと肩を震わせて振り返った。背中にリナを庇うことは忘れない。
「どーゆーつもりだ貴様!」
「おやおや、ずいぶんご立腹のようですねえ。負の感情がどばどば溢れてますよ?」
「当たり前だっ!」
 広い礼拝堂に、オレの声だけが響く。あまりに大きな反響が返ってきて、オレはハッと口をつぐんだ。
 慌てて祭壇を振り返るが、リナは起きるどころか、瞼を震わせる気配すらない。
「……リナに何をした? ゼロス」
「何もしてませんよ。リナさんの身体には」
「じゃあ、何で目を覚まさないん――待て、『カラダには』?」
「おや、ガウリイさんにしてはよく聞いてましたね」
「ゼロスっ!」
 宙に浮いたままのゼロスは、肩をすくませて笑った。いかにも面白がってます、
というように。
「ご心配なく、と言ったでしょう? 命に別状はありませんよ。
 ただちょっと、リナさんの精神世界に潜らせていただくために、深く眠っていただいただけです」
 は? 精神――何だって?
「つまりですね、リナさんの心の中を覗かせていただこうと思いまして。
 でも、無理に覗こうとするとリナさんの意識が邪魔するので、意識が働きにくいよう昏睡状態にさせていただいた、と。それだけです。
 術はもう解きましたから、小一時間もすれば目が覚めるはずですよ」
「心を覗く? ……何でそんなことするんだ?」
 ってーか、魔族ってそんなこと簡単にできるのか。……うらやましいヤツ。
「何でって、決まってるでしょう?リナさんの記憶喪失の原因を探るためですよ」
 原因ったって、なにを今さら……。
「階段から落ちたからだろ? 他に理由なんて――」
「おや、お気付きになってらっしゃらなかったんですか。
 そりゃ、リナさんが階段から落ちたというのが大本の原因でしょうけど、それはあくまできっかけに過ぎなかったようなんです。
 根本的な原因は、リナさんの心の内にあるみたいですよ?」
 言って、ふっとかき消える。
 オレは未だ消えない気配を追って、祭壇を振り返った。
 案の定、ゼロスがリナの枕元に現れる。とりあえず殺気はなさそうなので、オレも特に動かなかった。が、いつでもリナを庇えるように、意識だけは離さない。
 ゼロスがリナを覗き込んで、くすりと笑った。
「リナさんはね、大人になりたくなかったようですよ?」
「……何を、言ってる?」
「ガウリイさんには一から説明した方がいいですか?
 僕ら魔族が肉体を持たない、ということはご存じですよね? その僕らが存在する世界を『精神世界(アストラル・サイド)』と呼ぶんですが――そこには僕らだけでなく、あなた方人間の精神も存在しているんです。
 ただ違うのは、人間の精神というのは、僕ら魔族に比べれば実に脆弱で脆いんですです。ちょっと強引に触れるだけで、簡単に壊れてしまいます。
 ……僕はさっき、その『精神世界』でリナさんの心に触れてきました」
「なっ……貴様、まさかリナを!?」
 リナの心を壊したとでも言うのか。
 オレの険悪な気に、ゼロスはその笑顔を苦笑に変えた。
「あなたが心配するようなことは何もしていませんよ。まあ、その誘惑にかられたことは否定しませんが?」
「ゼロスっ!」
「はいはい、わかってますよ。
 単刀直入に言えば、ガウリイさん。リナさんの精神が退行現象を起こしたのは、あなたのせいです」
 ……た、たいこー……?
「で・す・か・らっ!
 リナさんがいきなり7歳になっちゃったのが! ガウリイさんのせいだと言ってるんですっ!」
 さすがのゼロスも苛ついたのか、妙にヒステリックな言い方でもって換言してくれる。
「オレの……せい?」
 そりゃ、階段から落ちたのはオレのせいだって認めるけど、でもそれはきっかけでしかなくて本当の理由はリナの中にあってそれもオレのせい……ってあれ!?
 い、いかん……頭使いすぎてくらくらしてきた……。
「話がよくわからんのだが?」
「おやおや、とぼける気ですかガウリイさん? 僕はリナさんの心から直接聞いちゃいましたから、とっくに知ってるんですよ?
 昨夜、どうしてリナさんが階段から落ちるハメになったのか、その経緯全て」
「う……っ!」
 そ……それってやっぱり、オレがリナに言ったことを指してるんだろーか…?
 リナ……何故にゼロスなんて厄介なヤツにしゃべる……?
 オレが冷や汗だくだく流してるのを知ってか知らずか、ゼロスは揚々としゃべり続ける。
「いやあ、普段はちっともご自分の感情を表に出さないガウリイさんなのに、よくもリナさんを口説こうなんて思い立ちましたねえ。ここにきて我慢も限界ってとこですかあ?
 その心意気や天晴れ、とでもお褒めして差し上げたいのは山々ですが、そのせいで当のリナさんに怪我までさせて、挙げ句の果てに記憶まで失わせちゃうなんて、そこら辺がガウリイさんらしいといえばガウリイさんらしいって感じですよねえ」
「やかましいっ! お前には言われたくないぞ、それ!
 大体、それとリナが『大人になりたくない』っていうのと、どーゆー関係があるんだ!?」
 苦し紛れに言ったセリフに、ゼロスはますます唇をつり上げた。
「関係なんて大ありですよ。
 今まで保護者保護者と言い張ってきたガウリイさんにいきなり迫られて、その時のリナさんがどういう心境だったと思います?」
 あ? ……リナの、気持ち……ってことか……?
「リナさんは今まで、自分の保護者であるガウリイさんの前では、子供でいるしかなかったんですよ。ご自分の意志に関係なく、ただあなたに子供扱いされるままに。
 そしてリナさんは、表面では『もう子供じゃない』と言いながら、一方でガウリイさんとの関係を気に入っていた。
 そういった曖昧な状態にあったときに、突然あなたから告白された。
 考えてもみてください。リナさんにとってはそれこそ、心の準備がなかったところに、いきなり横っ面を張り倒されたようなもんですよ。
 リナさんにはね、あの時のあなたの言葉がこう聞こえたんです――『早く大人になれ』と」



 オレが、リナを追いつめた……?

 確かにオレは、リナに早く大人になって欲しかった。オレの気持ちを受け入れられるだけの、大人の女に。
 けど、リナの方は――そんなこと望んじゃいなかった……?



「リナさんは、あなたの言葉を受け入れるわけにはいかなかった。受け入れてしまったら、今までのあなたとの関係を壊すことになるから。
 それで、大人になりたくないと思ったリナさんは――」



 オレの言葉を『聞かなかったこと』にした――十年分の記憶と一緒に。
 オレから逃れるためじゃなく、オレとそれまで通り一緒にいるために――



「…………」
 何も言えなくなって、オレは俯く。
 ゼロスが言ったことが真実なら、オレは、何て――……。
「ガウリイさん、今度は自己嫌悪でいっぱいですねえ。
 いやあ、ごちそうさまです。今日のガウリイさんは大盤振る舞いで、僕も嬉しい限りです」
「……少しでもそう思ってるなら、教えろ。
 どうしたら、リナは……リナの記憶は、元に戻る――?」
 オレの絞り出すような問いに、しかしゼロスは皮肉な答えを返した。
「ガウリイさん次第、としか申し上げられませんね。
 今朝も言ったように、僕には何もできることはありません。これは、リナさん自身がご自分の心に納得するまで治らないでしょう。
 ただ、その原因であるガウリイさんなら、リナさんの心に何らかのきっかけを与えることも、不可能ではないかもしれませんよ?」
 ふ、とゼロスのマントが風をはらむ。
 言いたいことを言い終えたゼロスが消えるのだ、と悟り、オレは最後に聞いてみた。
「……なあ、ゼロス……お前さん、どうして今回に限って、そんなに気前がいいんだ?」
 くすくす笑いをこぼしながら、ゼロスは肩をすくませた。
「それは秘密です――と言いたいところですが、まあいいでしょう。
 リナさんがこのまま、というのは、正直僕らも困るんですよ。リナさんの魔力は実に魅力的だし、まだまだ利用できる価値もある。それに――」
「それに?」
「――このまま楽な方に逃げられたんでは、僕が面白くありませんから?」
 にやりと笑って、ゼロスは消えた。