Sinner 『罪人は十字を背負いてただ忍従の道を行く』 |
5 信頼の洗礼 「まるっきり特別扱いだな」 「あ? 何が?」 ぼーっとしていたところに、突然ゼルガディスの問いが飛んできた。 半分聞いていなかったのと意味が掴めなかったのとで、オレはゼルに目を向ける。逆向きに座った椅子が軋んだ。 ――夜。 帰ってきたゼルガディス・アメリアと共に夕食をとったあと。 ゼルが、少しリナの様子を見たい、と言い出し、全員でリナの部屋に集まった。 他愛のない会話の中、ゼルはリナの記憶について、色々探っているようだった。結局、リナの奴は何も覚えていなかったが。 今、リナはアメリアと風呂に行っていて、部屋にはオレとゼルガディスだけが残されている。 「だから、リナがさ」 今まで窓の外を眺めていたゼルも、こちらを振り返った。 ……まだよく分からない。 オレはきょとんとしてみせる。こうして黙っていると誰もが大抵、オレが理解していないことを悟ってくれる。 案の定、ゼルは嘆息しながら言い直してくれた。 「リナはガウリイの旦那に特別なついてるな、って言ったのさ。 あんた相手だと、リナのヤツ、警戒心ってものが全くない。よっぽどあんたを信頼してるんだろう」 「……そうか? それは、ゼルやアメリアにだって同じだろ?」 オレはゼルから目をそらした。ランプに照らされた床を見つめる。 ゼルガディスはひょいと肩をすくめたようだった。 「まあ、怖がられてない、という点については、そうかもしれんがな」 確かに、リナは誰にでも屈託なく笑いかけ、話しかける。 今朝、初めてゼルガディスを見た時もそうだった。 はじめは不思議そうな顔をしていたものの、次の瞬間、にぱっと笑ってみせたのだ、リナは。 これにはゼルガディスの方がびっくりしていた。 『……驚かないのか?』 『びっくりしたよ?』 『いや、そうじゃなくて……怖くはないのか、俺が』 『へ? どーして? おにーさん、こわいヒトなの?』 『…………いや』 『じゃ、こわがることないじゃん。そりゃ、おにーさんって、ふつーのヒトとはちょっと違うみたいだけど。 ふつーじゃないのはこわいことじゃないもん。 あたしがこわいのは、ねーちゃんのオシオキととーちゃんのカミナリだけ』 そう言って、またにっこり笑って―― 「俺の素顔を見て泣き出さない子供など、世界広しと言えどリナくらいなもんだろう。 だが、それとこれとは別さ。……旦那は、リナに特別信頼されてる」 オレは何と言っていいか分からず、困ったようにゼルガディスを仰いだ。 ――本当にそうだろうか? オレから逃げようとしていたのは、リナの方なのに。 それとも、オレが『保護者』だからか? 『保護者』のオレになら、リナは心を開いてくれるんだろうか? 黙ったままのオレに、ゼルガディスが苦笑する。 「俺の言うことが信用できないか?」 「……いや……、そういうわけじゃないが……」 言葉を濁すオレに、ゼルガディスは悪戯っぽい瞳を向ける。 「じゃあ、証明してやろう」 「え」 どういうことか聞き返そうとしたとき、扉の外――廊下の向こうに、慣れ親しんだ気配が生まれて、オレは仕方なく口をつぐんだ。 ほどなくして、がちゃりとノブがまわる音。 「たっだいま〜♪」 「遅くなりましたぁ」 入ってきたのは、パジャマ姿のリナとアメリア。二人ともその肌をほんのりと染め、頬を上気させている。 「おう」 「ご苦労だったな、アメリア」 オレは振り返らぬまま、ゼルは片手を挙げて返事を返す。アメリアは笑って、 「いいえ、ちっとも大変じゃなかったですよ。 リナさん、宿のお風呂は初めてだって言う割に、ちゃんとマナーも知ってるし、一人で何でもできるし。わたし感心しちゃいました。 ねー? 楽しかったですよねー、リナさん」 「うん。広くって楽しかったー!」 どうやらご機嫌のようだ。 と、リナがトコトコとオレに近寄ってくる。そして、 「が〜うりっ♪ なにしてたの?」 ばふっ! 「だああっ! こらこらリナっ」 いきなり背中に抱きつかれて、俺は思わず叫んでしまった。 「にゃはは〜」 オレがその腕を解こうともがいたら、リナはふざけて、ますますしなだれかかってきた。 暖かく湿った肌と濡れて甘い香りを放つ髪が、オレを絡め取る。 「リ〜ナっ! 遊んでると湯冷めしちゃうだろ!? いい子だからもう寝ろ!」 ……っていうか、オレの理性がどうにかなる前に、離れろ。 「え〜? つまんなぁい」 文句を言うリナを、力尽くで引き剥がす。椅子から立って振り返り、リナの鼻先に人差し指を突きつける。 「寝・ろ!」 「みゅぅ〜」 上目遣いに睨んでくるが、取り合わない。 膠着状態のオレ達に、ゼルガディスがふっと笑った。寄りかかっていた窓を背中で蹴って、歩き出す。 「そうだな。今日はもう疲れただろう? ゆっくり休むといい」 そう言いながら、リナの横を通り過ぎようとして――すれ違いざま、ゼルガディスは不意にその腕を持ち上げた。その手を、リナの方に伸ばす。 ゼルガディスらしくない仕草だった。 リナの頭を撫でようとしているのだ。まるで、オレがいつも、彼女にそうしているように。 そして、もっと意外だったのはリナだった。 リナはハッと目を見張り――身をすくませたのだ。ゼルガディスの手を避けるように。 ゼルガディスはそれを見越していたかのように、リナに向かって優しく笑った。高く挙げられた手はするりと横へずらされ、ポン、とリナの肩に軽く置かれる。 「じゃあ、おやすみ。……行くぞ、アメリア」 「あ、はあ……。それじゃリナさん、おやすみなさい」 いつもと違うゼルの行動に、アメリアも訝しげな顔をしていた。が、ゼルガディスに促されて、先に部屋を出ていく。 扉を閉める瞬間にちらりと振り返ったゼルの瞳は、何故かやけに楽しそうだった。 『俺を信じる気になったかい?』 そう言っているようだった。 「………………」 オレは何とも言えない気分で、ゼルガディスが消えたドアを見つめていた。流石のオレでも、ゼルの言わんとしていることは理解できる。 「がうりー?」 リナに覗き込まれて、我に返る。 「……あ……、おう。いいからお前さんは、もう寝ろよ。な? いい子だから」 言いながら。 何となく気になって、試しに手をのばしてみる。 くしゃり。 ――リナは、逃げなかった。 そういえばオレは昼間も、無意識の内にこうやって、リナを撫でていた。それも何度も。 その時、リナは一度だって、オレの手を避けるようなことはしなかった――しなかった、はずだ。 今も、リナは大人しく撫でられている。 「ちぇー」 リナは唇をとがらせていたが、渋々ベッドに潜り込んだ。 それを確認してから、オレはランプのあるナイトテーブルに近づき、 「明かりは? つけとくか?」 「……消す。油もったいないもん」 その答えに苦笑しながら、オレはランプの火を消した。そのまま扉へ向かう。 「じゃあ、おやすみ」 「……がうりー?」 オレは再度振り返った。リナの声が、信じられないくらいに細かったから。 「リナ?」 「がうりー……行っちゃうの……?」 毛布から半分顔を出した格好で、リナが聞いてくる。暗くなった部屋の中に、紅く濡れた瞳が光っている。 胸を突かれる思いだった――その、あまりに頼りない姿に。 「……行かない」 踵を返し、ゆっくりとベッドに近づく。床にひざまづき、リナと視線の高さを合わせる。 その頬に、手を伸ばす。 「どこにも行かない――リナが眠るまで、ここにいるから」 「…………ありがと」 一瞬嬉しそうに目を細めると、リナはその瞼を閉ざした。オレの手に、自分の手を委ねて。 「おやすみ、リナ」 掌の中の華奢な指を、まるで宝物のようにそっと包む。そのまま、オレは板張りの床に座り込んだ。 どのくらい、そうしていただろう。 安らかな寝息をたてるリナの顔を、飽きることなく見つめていたオレの耳に、ふいに吐息混じりのつぶやきが届いた。 「……ねーちゃ――……」 言葉と共に頬を伝う、透明な滴。 起きているときは決して見せようとしない、それはリナの不安だった。閉じられた瞼からは、しかしそれ以上の涙がこぼれることはなかった。 こんな時に、思い知らされる。リナが、どんなに一人で頑張っているのかを。 「……子供の頃から意地っ張りなんだな、お前さんは……」 リナは泣かない。人前では絶対に――たとえオレの前であっても。 自分の不安や恐れを吐露することは、決してない。それは彼女の強さ故と、オレも知っているけれど。 こんな風に、一人で泣かないで、ほしい。 「そりゃ、オレは頼りないかもしれんけどな。もうちょっと頼ってくれてもいいだろ? オレは、お前さんを守るためにここにいるんだから……」 繋いでいた手をほどき、そっと頬の涙を拭う。 リナが熟睡していることを確かめてから、オレは静かに腰を上げた。立ち上がりざまに、リナの頬に唇を掠めさせて。 「……ごめんな、頼りない『保護者』で」 呟いて、今度こそ部屋を出るために扉へ向かう。 音をたてないよう細心の注意を払いながらノブを回し、細く開いた隙間に身を滑り込ませると、また同じようにノブを戻す。 中の気配が動かないことに安堵して、オレは目を上げた。 「すまん、またせたな」 「……いや」 壁にもたれて立っていたゼルガディスは、短く答えただけだった。 |