人 魚 姫









第1部《再会編》


 第1話



 その日もまた、いつものようにガウリイは城を抜け出していた。
 腰に届くほど長い黄金の髪。
 澄み切った空の蒼の瞳。
 群を抜いて高い身長。
 一般庶民の服を着ていても、彼はまぎれも無く“王子様”であった。


「おはようございますガウリイ様。今日もお忍びですか?」
「また、教育係のミルガズィア様が怒りますよ?」
 通りに並ぶ露店から明るい声がかけられる。
「あ〜いいんだ。城は窮屈だし。
 俺はこっちの方が性に合ってるよ」
「ガウリイ様、新しく入荷した果物なんですがね、一つ味見して下さいよ。
 スィーリーってんですけどね」
 そう言って投げられた青緑色の果実を三つ、左手だけで器用に受け取ってガウリイは笑った。
「お、いいのかこんなに」
「かまいませんよ。そんかわりお気に召したらどうぞ宜しく!!」
「おう!」
 売り子に片手を振るとガウリイは歩きながらそのうちの一つに齧り付いた。
「……うん、うまい。こりゃ料理長に言っとくか」
 甘いだけでなく適度に酸味もある。彼の好みの味だ。
 次々とかけられる声に答えながら歩いていたガウリイだったが、不意にその足が止まった。
「………」
 賑わう通リに繋がる細い裏路地。
 もう一口果実を齧るとガウリイは不意にその路地に入って行った。
 ……その後には、目をハートマークにした町の娘たちが残されていた。


 賑やかな通りも一歩路地に入るとまるで別の空間に入り込んだかのように静かになる。
「聞き違いじゃ、なさそうだな」
 そう呟き、足を速める。
 迷路のように入り組んだ路地裏を馴れた様子で進む。
「しつっこいわね!あんた達なんかに用は無いって言ってるでしょ!!」
 かんだかい少女の声。
「俺達にはあるぜ?なぁ」
 幾つもあがる下卑た笑い声。
 ………まだああいった手合いがいたのか。
 ガウリイは更に足を速め、路地を曲がる。
 曲がった先には彼の予想通りの光景が広がっていた。

 壁際に追い詰められた少女が一人。彼女を囲むごろつきは五人。
「一人じゃ寂しいだろうから俺達が遊んでやるって言ってるだけだろ?」
「なぁにが遊んでやるよ。いまどきそんな台詞に引っかかる女の子がどこにいるってのよ!
 いい加減にしないとただじゃすませないわよ」
 どう見ても強がりとしか思えない台詞にごろつきどもが笑う。
「強がってんじゃねぇよ。ほら来いって」
 ごろつきの一人が少女に手を伸ばす。
「そこまでにするんだな」
「な、何だてめぇは!?」
 さっきの果実を齧りながらガウリイはごろつき達を見まわした。
「黙ってさっさとここから立ち去るんなら見逃すが……その気はないみたいだな」
 そう呟いてまた一口。
「カッコつけてんじゃねぇ!」
 青緑の果実が中に舞う。


「……やれやれ、口ほどにも無い。ま、この手のヤツとしてはこんなものか」
 空中に放り上げられた果実が落ちてくるまでの、僅かな時間。その間にごろつきは全員ガウリイにのされて路地にのびていた。
「大丈夫か?お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃん?」
 地面に倒れた男達をつま先で突ついていた少女はその言葉に顔を上げた。
「誰がお嬢ちゃんよ!!いきなり何の脈絡も無く現れて勝手な事した上に子供扱い!?大体あいつらだってあたし一人でかたずけられたんだから」
 こちらを見据える紅蓮の炎の瞳。
 その瞳に一瞬今朝の夢の少女が重なる。
「…まぁ、余計なお節介とはいえ一応助けられた訳だから、礼くらい言っとかなきゃね。
 ありがとう。助かりました」
 本当に口先だけで礼を言いぺこりと頭を下げると、少女は踵を返しあっという間に駆け去ってしまった。


「ガウリイ様」
 背後からかけられた渋い声。
「やれやれもう見つかったか」
 振りかえるとそこには予想通りの人物が立っていた。
「わかっておいでとは思いますが……いい年をして城を抜け出して町で遊ぶのは止めていただきたいものですな」
 相変わらずの無表情で詰め寄るミルガズィアに引きつった笑みを返すガウリイ。
「それでは、城にお戻り下さい。
 ……一週間後にある舞踏会の事で、国王陛下がお呼びです」
 舞踏会。
 その言葉に、ガウリイは心底憂鬱そうな溜息をついた。


         * * * * * * * 


 あの日から三日後の夜。
 ガウリイは自室の窓から夜空を見上げていた。
「あの瞳……」
 路地裏で、ほんの少し見ただけの少女。
 幼い日に出会った人魚の少女。
 そのどちらもガウリイを射貫いた紅の瞳。
「十年、か…」
 初めて家出を決行した夜。溺れかけた自分を助け、励ましてくれた小さな紅の人魚の事をガウリイは誰にも告げなかった。
 あの少女の事は、自分一人だけの秘密。彼女は自分だけの人魚姫。
 ……けれどここ数年、彼女の夢を見る事はなかった。久し振りに見た彼女の夢。そして、あの少女。
「駄目だ。………散歩でもしてこよう」
 壁に掛けてあったマントをはおり、ガウリイは秘密の抜け道から城の外へ出た。


         * * * * * * *  


 真夜中の海岸。崖の下の小さな入り江。
 誰もいないその場所に、小さな人影が一つあった。
「……今なら、大丈夫ね」
 小さな呟きに、微かな衣擦れの音が重なる。


         * * * * * * *  


 夜の闇を照らす月の光。
 もうすぐ真夜中の海岸はしんと静まり返っていた。
「もうすぐ満月か……」
 満月の晩に行われる舞踏会。それはガウリイの結婚相手を決める為に行われるものだった。
「俺は結婚なんてする気はないって言ってるのに………?」
 波の音に混じる微かな声。
「歌声、か?こんな時間にいったい誰が……」
 ガウリイは声のする方角へ足を向けた。


 声は砂浜の外れにある入り江の方から聞こえてきていた。
「あそこは……」
 ガウリイの脳裏に幼い日の思い出が甦る。
 海の中から顔を出した小さな人魚と、岩の上で話す子供の自分。
 色々な事を話し合っているうちに二人とも眠くなって、そのまま浜辺で一緒に眠ってしまって……
 目が覚めると城の自分の部屋にいて。怖い顔をした父や母、ミルガズィアにこっぴどく叱られて。
 びしょ濡れのままで一晩中いた為にひどい風邪をひくというおまけまでついたのだった。
 声は少しずつはっきりしてくる。
「この声は…」
 数日前の少女の声。
 木々の間から入り江を覗いたガウリイの目に、一人の少女の姿が飛び込んできた。


 少女は、入り江の中の岩の上に座っていた。
 長い少しクセのある艶やかな栗色の髪。
 月光を浴びて白く輝く肌。
 そして、最高級のルビーを思わせる真紅の鱗。
 そこに居たのは、一人の紅の人魚姫。


 ガウリイは我を忘れてその姿に見入っていた。
 目の前の光景に重なる小さな影。
「……リナ?」
 思わず漏れた声に少女が振り向いた。
 夜の闇の中でなお輝く紅の瞳。
 次の瞬間、弾かれたように少女は海に飛び込んだ。


 ガウリイは舌打ちした。
 声を出すべきで無かった。気がつけば彼女は逃げ出すに決まっていたのに。
 入り江に駆け寄るがすでに少女の姿はどこにも無かった。水の中を覗いても昼間ならともかく夜の今では何も見えない。
 溜息をついた視線の先に、畳まれた衣類が置かれていた。


         * * * * * * * 


 誰もいない入り江にそっと顔を出した少女は溜息をついた。
 失敗した。真夜中なら誰もいないと思っていたのに。
 本当はここに戻るつもりは無かった。さっきの人間がまだいるかもしれないし、いないとしても別の人間を呼びに行っているのかもしれない。
 それでもここに戻ってこざるを得なかったのは。
「服…見つかってなきゃ良いけど……」
 少女には陸でやらなければならない事があった。そのためにはどうしても衣服が必要なのだ。
 辺りを注意深く探る。
 人の気配はしないが用心するにこした事は無い。
「ここに来なきゃ良かった…」
 思わず漏れた独り言。
 小さな頃の思い出の場所。あの頃はまだ何も知らなかった。それでもここが大切な場所であることは変わらなくて。
 小さな自分が助けた金の髪の少年。
 そっと座っていた岩の上に体を持ち上げる。服を見つけたら一刻も早くここを離れないと……
「探し物はこれか?」
 不意にかけられた声に反応するより早く、少女の体は大きな腕に捕らえられていた。


「離してっっ!!」
 暴れるが、相手の腕はびくともしない。
「暴れるなって」
「イヤよ!!」
 力で敵わないのはもうわかっていたが、それで大人しくするわけにはいかない。なおも暴れつづける彼女に腕の主は溜息をついた。
「そんなに暴れてると岩にぶつけて怪我するぞ?…リナ」
「え…?」
 思いがけず自分の名を呼ばれ、リナは暴れるのを止めた。自分を拘束する相手をようやくまともに見る。
 月の僅かな光の中でさえ輝く黄金の髪。
 逆光の為良く見えないが、相手の瞳が自分を見つめている。
「貴方…誰?どうしてあたしの名前を…」
「忘れちまったのか?…まぁ、お前さんは小さかったから無理も無いか…」
 夜の闇と逆光の為相手の顔がよく見えないリナは必死で記憶を探った。
 海に住む仲間たち以外に自分の名を知る者はいないはず。それも相手は陸の人間なのだ。
 ……いや、一人だけいた。まだ幼かった時に出会った人間の男の子。
 まさか。
「ガウ・・・リ?」
「正しくはガウリイ、だけどな。リナ」
 目を丸くするリナの前で、ガウリイはにっこりと笑った。