凸凹恋愛事情 背水の陣
― 前編 ―
〈彼ノ誘惑、彼女ノ奮闘〉















緊張の一瞬。
生唾を飲み込んでまた一歩、足を踏み出した。

ほんの少しの物音にも耳を澄まし、出来うる限り平静を装って歩いていく。
緊張の欠片もない音はペタペタと鳴るスリッパ。
相応しいのは老朽化した廊下のきしむ音。

高鳴る胸を押さえながら、されどそれをおくびにも出さず先へと向かう。
そう、焦りを見せてはいけない。
部屋に逃げ込むように見えてはいけないのだ。
それは自分の高い矜持ゆえに。
おまけに、脅えや竦みはアレを喜ばせる要素にしかなり得ないのだから。
あの意地の悪い笑みすら様になる整った造作は詐欺だとしみじみ思いながら、
内心で思いっきり苦い顔をする。

それでも表向きはあくまで自然に。ごく普通に。

浴場から部屋へと続く廊下。
その曲がり角を過ぎれば、もう部屋は目の前だ。

手前が相棒の部屋で、その奥が自分の。

焦燥を隠す足どりに極度の緊張を強いられる。
問題の人物が居るであろう部屋を目の端に捕らえながらも平素で素通りする。
中の気配は全く感じられない。
まだ戻ってきていないのだろうか?

自分とほぼ同時に旅の汚れを落としに行った相棒の顔を思い浮かべながら、
今日の避難所となる部屋の前まで辿り着く。
この中に入ればヤツは手出し出来ない。

以前、「なんで中まで追ってこないの?」と素朴な疑問をぶつけたら、
「密室に籠もったら、我慢できる自信は……ないぜ?」なんて色香を漂わせながら甘い毒を吐いていた。

う゛う゛……保護者だったくせに。くらげだったくせに〜〜!!!

物音に過敏になっていたせいか、いつの間にか自分の呼吸すら止めていて息苦しい。
肺から静かに息を吐き出し、確認のため、ちらりと隣のドアに目を走らせた。



―――キィィィ…


わずかに開いていたドアの蝶番が細くささやかに、されど高らかに警鐘を鳴らす。
その狭間から覗くのは、暗く一寸先も見えぬ漆黒の闇。
絶望すら伴うそれに、言いようのない不安が足下から這い上がってくる。


―――……さっきは、確かに、閉まって、た…わよ、ね?

呆然としそうになるあたしに、本能が激しく急き立て身体を突き動かす。

逃げろ、と。

体裁などかなぐり捨て、アレの手の届かない所へ早く―――

早く、早く早く逃げろ!

緩慢な動作を一瞬で切り替え、性急な勢いでドアノブを掴んで回すと、彼の部屋とは違う優しい闇が光に灼かれるように逃げていく。

目の前に広がる空間があたしの安全を保証してくれる――――はずだった。


バンッ

と、固い拒絶の音を立て、あたしの意思とは裏腹に強い力がドアを押し戻し、先の空間が遮られる。
無論、あたしがそんな事をするはずもなく、原因はあたしの真後ろから伸びている太い腕の仕業だった。

その手の女性に言わせれば、震い付きたくなるような見事な筋肉質。
それは見せるためではなく、戦うためのもの。
ただし、それがあたしの耳をかすめてドアの間に挟まれていると、頼もしいはずのそれも一変する。

吹き出してくる汗をそのままに、ゆるゆると後ろを振り返ると、見上げた定位置に薄く笑みを浮かべた金髪碧眼の男が居た。
それはよくよく見知った相棒の顔。

だけど……な、なんか無性に怖いんですけどぉ!

口角を緩く吊り上げる男は、以前まであたしの保護者をしていた彼とは全くの別物で。
本当に同一人物かと疑いたくなるほどの変貌を遂げていた。
それは、あたしが迂闊にも解き放ってしまった彼のもうひとつの貌。
保護者の仮面を脱ぎ捨てた、男の本性。

もう一度もとの関係に繋ぎ直したくても、あたしはどうすることも出来ない。
唯一の方法だった“なかったこと”への後戻りも……彼は許さなかった。

彼が自分で縛めていた鎖は無意識であった頃の自分によって千切られ、後には繋がれていた鬱憤を晴らすべく、日々爪を研いで虎視眈々と狙ってくる本能剥き出しの男。

あたしは、それを御する術も知識も経験も、何一つ持ち合わせていなかった。

だから!
それがどっからともなく湧きでて来られると、めちゃめちゃビビるのよ!

「ど…っ どっからわいたのよ!?」

上擦った声でガウリイから距離を取るようにドアに張り付いた。
し、心臓に悪い。激しく悪い!!

「つれないなぁ…リナ。オレの顔も見ないで寝ちまうのか?」

「だ、だ、だって…あんた、気配…!どこにも…っ!!」

気が動転するあたしを愉しそうに眺めながら、ガウリイはドアについた手の片方をあたしの首筋に這わせる。

「オレはとっくに戻ってたぞ?ただ―――気配を殺してリナを待ってたんだ」

「な…んでそんな…」

どもるあたしにガウリイは妖艶すら含んだ笑みで、

「だって、その方が楽しいだろ?」

いけしゃあしゃあと言い放つのだ。


あーもう!またからかわれてる!
わかってるわよ!?
ガウリイがあたしを脅かして内心面白がってる事ぐらい!

いつもとろけそうなほど甘く優しかったくせに、最近あたしをいぢめることを生き甲斐にしているような優しくないガウリイが出現しやがったのだ。
お前は好きな子をいぢめちゃうガキかぁ!?と叫んで、もしヤツにあっさりと頷かれたらあたしの立場がないので黙っておくけど。

この体勢は、ガウリイに追いつめられているようで、ひどく落ち着かない。
罠に掛かった獲物のごとく逃げ場がないあたしに、飢えた獣の瞳が容赦なく貫く。
隠すようなことはせず、あからさまに、痛みを伴うほど切実に―――。

舐めるようにあたしを見て、のどを鳴らす。
あたしに、飢えてる。

瞳が訴える。

あたしが、欲しいのだと。


最近のガウリイは、あたしの手に負えない。

迫って、求めて、強く強く欲している―――…

あたし、自慢じゃないけどそんな風に求められたことないのよ!
だから…もちょっと手加減してっていつも言ってるでしょーが!!
ちょっぴり…ほんのごくわずかだけど怖いのよ。
わかってんの? このバカくらげ!

魔族や強敵、ある時は変人オンパレードに立ち向かう恐怖心とは違う。
命の遣り取りの中では、死ぬまであたしはあたしのままだ。

でも―――…
ガウリイと相対するとあたしがあたしでいられなくなる。
らしくもなく後退って、ガウリイの手のひらで転がされている。

「この性悪くらげ…」

「何だ、今頃気づいたのか?」

微かな囁きを聞き取ったのは、あたしとガウリイの距離がやけに近かったから。
いつの間にか、あたしは彼の腕の中に攫われていた。
くつくつと楽しそうにのどを鳴らしながら、耳元で低く囁く。

「今更――もう、遅い」

それは諭しているわけでも、脅しているわけでもなく、純然たる事実なのだと。
言われて気づく。
今こうして抱き締められて大人しくしていることが、全てを物語っているのだと。

「分かってるわよ」

溜息混じりに白旗を掲げて、身を委ねる。

こうしていると安心するのに。満たされるのに―――…
怖いと思うのは、どうして?

見上げたあたしに、ガウリイはなんの躊躇いもなく口付けた。

「…ん……んん…っ」

今はほとんど全てと言っていいほど、深いキス。
始めはそれこそ手が触れるだけでも恥ずかしくて、ガウリイを呪文で吹き飛ばしていたのに。
いつの間にか唇を割って入る彼の熱に侵されるのが心地良いと。
そう、思うようになっている。
理性を溶かされるのと同時に不安に襲われ、突き飛ばしたくなる。

嫌だ。
あたしの中に、心に、これ以上入り込まないで。
あたしを突き崩して、溶かして、作り替えてゆく。
他でもない、ガウリイに―――

あたしの好きな柔らかい微笑みと優しい手に引かれ、向かう先は真っ暗な奈落の底。
彼と共に、堕ちていく。
遙か上の光〈出口〉には、もう届かない。

光へと伸ばした手を取られ、代わりに赤く蠢く口に銜えられる。
爪をなぞる熱くしなやかな舌。
時折かしかしと強かに歯で噛まれ、痛みに顔を顰めると、すかさず、とろけるくらい優しく癒される。

その間中ずっと蒼い瞳は真っ直ぐあたしを向いていて、じわじわとあたしの身体が熱を帯びてくる。

「は、離しなさいよ…っ」

引こうとするあたしの手首をとり、名残惜しげにゆっくりと指を引き抜くと、
手の甲に軽く口付けた。
瞳は押さえきれない熱を晒け出したまま。
少し細めてあたしを映し出す。

場数が違う―――…

そう、思い知らされる。

この男、のほほんと人畜無害そうな顔をしてどれほど多くの女を落としてきたのやら。
初心者がにわか仕込みで太刀打ちできる相手じゃない。

「なぁ――」

「だ、駄目!」

口を開いた途端、否定するあたしの答えに、哀しそうな、寂しそうな瞳に早変わりする。
いい年こいた大人の男がするような表情ではないと思うのだが、この優男(エセ)にはよく似合う。
しゅん、と沈んでみせる様はもの凄く可愛い。
よしよし、と頭を撫でたくなるのは、惚れた弱みか、はたまた母性本能か。

いや待て。

なんだかあたしがガウリイを苛めてるみたいだけど、苛めまくってんのはあんたの方だから!
ってか。こいつ、そんな可愛い生き物じゃないのよ〜〜!!
騙されるな、あたし!

「オレはリナと一緒にいたい」

「う゛……」

「リナはオレと居たくないのか?嫌か?」

ひ…卑怯な。
否定の問いに素直に頷くのは、その倍の労力が必要なのだ。

しかもこの哀願の表情。
切って捨てたら泣き出しそうだ。

「なあ、入れて?」

羊の皮を被ったオオカミが、舌なめずりをしている。

駄目…。
入れさせては駄目。
頷いた途端、目の前の獣はあたしに容赦なく食らい付く。

ここは最後の防衛線。




まさに、背水の陣――――