夜と朝の狭間で























「ガウリイ、彼女が今日からお前の母親だ」






威厳を振りまくように高圧的な態度でそう言ったのは、

記憶も朧気なほど、ほとんど顔も見たことがない父親。


彼が父親と分かるのは、父の血を色濃く受け継いだであろう、
鏡に映る自分の容姿からだった。

金髪蒼眼の造りは、確かによく似ていた。





―――それにしても、この父親が家に帰ってくることなど何年ぶりだろう。



そして、久々に帰ってきて言われた言葉が、これだ。



父親の傍らには、小柄な女性。

栗色のくせがついた長い髪。

ルビーを彷彿とさせる深紅の瞳。

白い肌によく合う紺のスーツに身を包み、オレに向かって柔らかく微笑んでみせた。



赤い瞳に見つめられた瞬間、何故かオレの心臓が高鳴った。

……急に、なんだ?

目の前の彼女は、あの女――自分の母親以外で初めて見た女性だからか?

初めての感覚に訳も分からず、ただ困惑するばかりの自分。



跳ねた鼓動と自然と赤らむ顔。

それに気付かれまいと、ぺこりと会釈を返し、曖昧に笑って見せた。



「彼女はリナ。私の優秀な秘書だ。……あの愚かな女とは違ってな」





『愚かな女』それはオレの母を表す言葉。

富豪の娘であった母は、父に結婚し、

……そして少しずつ、彼女の運命の歯車が狂っていった。



何不自由のない生活。
物質で囲われた生活。

オレが生まれてからと言うもの、母とやることは全て終わったかというように家に寄りつかなくなった父。





        『私は捨てられたのよ………あんたのせいで…』





母は少しずつ、少しずつ狂っていった。
発狂したように叫び、やり場のない怒りはオレに向かった。



            『お前さえ居なければ…っ』



父に捨てられることもなかった。
自由でいられた。

そう言って意識がなくなるまでなんども殴られた。

違う、
あの女は確実にオレを殺そうとしていた。

―――しかし、ある日。

一方的な暴力はあっさりと終焉を迎えた。







母は消えた。

家の金をありったけ持ち逃げして。





その数日後、逃げる途中で事故死したと聞いた。


それが例え仕組まれた死だとしても。

何の感慨も浮かばない。

感傷もない。



――――むしろ、せいせいした。
それなのに……。










また、女かよ。




オレの安らかな安息も長くは続かないらしい。

今日から、またこの女を『母親』と呼び、あの地獄のような生活が始まる。

憂鬱?

いや、もう心は凍りついて何も感じなくなっていた。




「ガウリイ、聞いているのか?」


ぼんやりとした様子のオレに父が眉を顰める。

彼がオレに求めるのは、自分の駒として使える道具としてのみ。

父の会社は、株式形式を取らず、代々の世襲制の一族経営会社であった。

それでも、大企業と呼ばれるほど大規模な会社構造。
そうとくれば、父の一族…オレも含め、ガブリエフ家は相当な資産を有していた。

けれど、跡継ぎはいつか必ず必要になる。

ガブリエフ家が将来もなお繁栄し続けるには、自分の跡を継ぐ人材は必要不可欠だった。


だから、生かさず殺さず、この物にあふれた部屋に閉じこめておく。


暴力を振りかざすことも、詰られることもない。

それだけでも、オレは彼に満足している。


―――干渉はたくさんだ。


その父に反抗することなど出来るわけもなく、

彼の言葉に小さく頷くと、父の視線はリナに向き直る。



「これが私の息子、ガウリイだ。今年で12になる」

「ええ。存じております」


鈴が鳴るような、けれどよく通る声。

あの女のようなか細い縋る声でもなく、喉をつぶして激昂する声でもない。

澄んだ、張りのある美しい声音。



「君には非常に優秀だ。普段通りの仕事もして貰いたい。
 負担をかける事になるのは重々承知の上だが、どうだね?頼めるか?」

探るような目つきでリナを見つめ、彼女もまっすぐ見つめ返す。

そしてにっこりと微笑み、

「もちろん。こちらもそのつもりです」

ハッキリと言い切った。



恋人同士にしては―――夫婦の会話としては非常識に近い他人行儀さ。

ただ、オレは普通の夫婦を見たことがないから判断のしようもない。



一日中、部屋に囲まれ、閉じこめられ。


たまに父が用事で帰ってくれば、母は激しく父を問いつめ、号泣する。

それに辟易した顔で母を見下ろす父の目には、はっきりと母への軽蔑が
見て取れた。

それなのに、今はどうだろう。

ここ仕事一筋の父が傍らの少女と見まごう彼女に慈しみの言葉をかけ、
期待しているとまで言わせる。

彼女と母は何処が違うのだろう。

女であるには違いないのに。


「お前もリナの手を煩わせるな。分かってるな?」

自分と同じ蒼い瞳で父が冷たくオレを見下ろす。




反抗することはできない。

従うしかない。


「はい」


オレの返事に満足したように頷き、小さく目配せすると、父はリナを連れて玄関に戻っていく。






「……は……では……の……ち……」
「…で…………ああ…」
「………む…」
「………………はい」



二人で何か話している声が微かに聞こえる。

しかしオレには馴染みのない話し。

どうせビジネスの話しだろう。



ぽんやりと虚空を見つめるオレの耳に、ドアの閉まる音が届いた。

どうやら、行ったようだ。

――――あの女は仕事でいないなら、
オレの期待もあながち外れたものでもないかもしれない。



しかし、次の瞬間、淡い期待が打ち砕かれた。




「おまたせ〜」

リナと呼ばれた女が戻ってきたのだ。


「?どうしたの?」

オレの歪んだ顔を見咎められ、リナは不思議そうに尋ねる。

それはまだ幼い少女のような仕草ではあったけれど、
彼女は今日からオレの母親――

イイ子にしなくてはいけない。

少なくとも、目の前の女を油断させる程度には。



はにかむような表情を作って、言いたいことを仄めかす。

「あなたは父と一緒に行かないのですか?」

「……ああ。そーゆーこと」


オレを一瞥しただけで全てを読みとられてしまったのだろう。

彼女は人の悪い笑みを浮かべる。

「残念ねぇ、厄介払いが出来なくて」

「………」

へぇ。

内心、感心した。

流石、というべきか。

父が頼るだけのことはあって、頭の回転は悪くないらしい。

人の顔色を読むことにも、裏に隠したものを見破るのにも長けている。

そして、豊かに変わる表情―――吸い寄せられるように、
それら全てに惹き付けられる。




「……アナタは僕の敵ですか?」



彼女は態度を一転させたオレに、にぃっと笑ってみせた。

「あたし、自分の興味にしか触手が向かないの」


オレも満足して頷く。

ならば――――


「始めは、あんたみたいな可愛げの欠片もないガキなんか、どうでもいいと思ったんだけどね。ナカナカ…面白そうじゃない」

「……はぁ……?」


「つまりは、」


器用にウィンクをして、


「アンタに触手が向いたってことよ」


彼女は不敵に笑って見せた。


「は……はは。」


その様子にオレはただ、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。








…とんでもねぇ女だ。


それが、オレのリナ=インバースへの第一印象だった。











<続く>