『遺書』 |
声にならない呟きの向こう、元気な頃の妻がそこに立っていた。 まだ痩せる前の、丸みを帯びた赤い頬。 ぷくぷくし過ぎなぐらいの腕に、作業着の袖を捲り上げて、恐らくは酒の樽詰をしているところなのだろう。 これは秋の仕事だ。 彼女が病に倒れたのは、冬。 まるで幻影とは思えない。 きっと……手を伸ばせば触れられる。 妻が見つけた鉱石が本当に時間を保存するのであれば。その時間にあったものすべてをよみがえらせるのであれば。 (クソったれ!) 早く動かなければと焦る。 一秒のうちに、鈍りきった自分の身体を彼は万回呪った。 「こら、あなた。これが見えるってことは、3、4年以内にこの樽まで飲んじゃったってことよね?」 自分とは少しずれた方向を見て、彼女が悪戯な顔をしかめる。 「それ以上経つと、予想では『真の青玉』の効力が持たないのよ。まあ、おいおい実験で確かめればいいことだけれど、これも効力のテストの一つだと思って?」 「タニア」 「あんまり飲むと身体に悪いんだから、お酒は少し控えてね、グレイ。ちょっと心配だわ」 「……タニア。頼む」 かき寄せた身体は、暖かく。 けれど一瞬の温もりは、記憶する間もなく淡く消えていった。 年甲斐もなく、干からびそうになるまで泣きつづけて。 男は一言、呟いた。 ひでえカミさんだ、と。 the end. |