いつか旅立つ日まで
〜8〜


















 例えばあたしにできることって、何があるのかわからない。
 多分、『何か』はあるとは思うんだけど……そう、思いたいんだけど。
 でも、まだそれはわからなくって。曖昧な、霧の中にあるような感じ。

 いつか、わかる時が来るのか―――それともわからないまま、時間だけが流れていくのか。

 だれかに答えてもらえれば、その時は安心するのかもしれない。
 だけどそれではダメだと、あたしは知ってるから。
 教えてもらった答えは、あたしのものではない。一時の安心感は得られるかもしれないけれど。


 泣きたくなる夜があっても、朝になれば、また笑えると知った時から。



 ***



 それから何日かは、同じようなことの繰り返しだった。
 あたしもガウリイもロナも、ひたすら家のことや姉ちゃんに言いつけられた用事に東奔西走。
 確かに忙しくはあったけど、だけどそれもべつに苦痛ではなかった。セイルーンの家にいたって、やっぱ家事やら何やらはあるわけだし、ガウリイにしたって仕事がある。ま、ロナは友達と遊んでるだろうけど……でも、「お手伝いですー」って言って、喜んでちょこまかしてるし。
 それなりに、平和で楽しい時間だった。……まぁ、姉ちゃんと話す時には、相変わらず緊張するんだけども。
「あんたも、すっかりこの家に慣れきっちゃってるわねー」
 店への荷物運びを終えて帰って来たガウリイは、勝手知ったる我が家といった感じで、台所から水を持ってきて、それを美味しそうにぐびぐびと飲んでいる。
「そうかぁ?」
「何か、最初からここに住んでたのかって思うぐらいよ」
 それは、悪いことではない。むしろ喜ぶことで。
 ガウリイは変な遠慮をしない。ロナも同じく。多少の気遣いやら何やらは見られるが、それでも、十分に見ていて親しいと思えるほどの付き合いになっているのだ。母ちゃんや姉ちゃんと。
 変にぎくしゃくしたりするよりかは、こっちの方が全然楽で。それに楽しい。
「んー、だって、おまえさんの家族だからなぁ」
「何よ、それ」
 すっかり定位置になってしまった椅子に腰掛けながら、ガウリイは小さく笑った。
「だから、ここが、おまえさんの家だからだよ」
 いや、だからって言われても。全然わからないんですけど。
「変に他人行儀にする必要ないだろ? リナのお袋さんにしたって、全然そんな風じゃないしな」
「ま、ね」
 母ちゃんの場合は、たんに素でのほほんなだけなような気もするんだけど……
「お、またやるんだな」
 ロナの奴もこりないよなぁと呟くガウリイの視線は、窓の外に向けられている。
 中庭に面した窓は一段と大きな作りになっていて、ほぼ天井近くから床まで伸びている。このぐらい大きいと日差しもさんさんと降り注いでくるので、この季節はとても暖かい。うちにも似たようなのはあるんだけど。
 そこから見える中庭で。作業の一段落したお昼前になると、姉ちゃんとロナが手合わせをするのは、もはや日常のこととなっていた。
 昼時の忙しくなる時間の前に、姉ちゃんは一度バイトから帰ってきて、手合わせをして。そして一緒に昼食を食べてから、またバイトに出かけるのだ。
「あれ、いつまで続けるんだろうなぁ」
「ロナ本人は、姉ちゃんに勝つまでやるって言いそうだけどね」
 最近では、姉ちゃんがロナに怪我させるわけないって改めてわかるようになったから、あたしも大人しく観戦できるようになっている。
 まぁ、前だって、姉ちゃんのことを信用してなかったわけじゃないんだけど……そこはほら、複雑な乙女心というやつである。
「ルナさんに勝つまでって、そりゃいくらロナでも無理だろ?」
 あっさりとガウリイは言う。ロナ本人の前では、とても言えないだろうけど。
「ま、そりゃそうなのよねー」
 べつに、ロナが弱いというわけではない。剣技だけでもあたしより遥に上。まぁガウリイには及ばないが、それは身体が小さいゆえのリーチの短さと体力のなさ、それと、あとは経験によるもの。同い年の子供となんか、それこそスライムと黄金竜を戦わせるようなもの。
 姉ちゃんとでは、それはもう圧倒的に経験値が違いすぎるのだ。習うより慣れろ、とはよく言うが、まさにそれ。
 その経験ばかりは、一週間やそこらでどうこうなるものではない。将来的に、ロナがもっと成長して、たくさんの経験を積めば、そうしたら姉ちゃんとも五分五分の勝負ができるのかもしれないが、今はまだお話にもなっていない。
「ところでロナ、ルナさんに相手してもらうようになって、少しは強くなったのか?」
「……さぁ?」
 窓の外(って言っても、いい天気だから窓は開いてるんだけど)に広がる光景を見ながら、あたしとガウリイはそろって首をかしげた。
 姉ちゃんが結界を張っているのだろう、限られた空間の中で、二人の剣、そして精神世界面からの力が交差してぶつかり合っている。
 剣だけならまだしも、精神世界面からの攻撃となった日にはもう、あたし達にはもう何が何だかわからない。
 今だって、頭上に出てきた黒い靄のようなモノを、ロナはきっと一睨みし、そして靄を消した……のか?
 一体その靄が何なのか、そしてロナがどうやって消したのか、見ているあたし達にはさっぱりわからない。
 そんな戦いなものだから、何をやっているのかさえわからないのだ。その状況で、上達したも何も、わかるはずがない。
「まぁ、姉ちゃんが相手してんだから、上達してることはしてるんじゃないの? 多分」
「頼りない返事だなぁ」
「……んじゃあんたわかるの?」
 あたしの剣呑な眼差しに気づいているのかいないのか、ガウリイは無意味ににこやかな笑みを浮かべ。
「バカだなぁ、リナ。普段のおまえの話だってわからないオレが、わかってるわけないだろ?」
「いばるなぁぁぁぁっ!!!」

 すぱぱぱぁぁぁんっ!

 うだああああ、もう、こいつはっ! 笑顔でそんなことを言うんじゃないっ!
 ガウリイもなぁ。出会った頃は、もうちょっと脳みそが活性化してたと思うんだけど……年々ボケが進んでるような気がする。これじゃ老後はどうなっちゃうんだろ……あぁ恐ろし。
「いてて……なぁリナ、なんかおまえのスリッパ、前よりも激しくなってないか?」
「毎日毎日あんたにつっこみいれてれば、嫌でも手首のスナップが鍛えられてくわよっ!」
「つ、つっこみで鍛えられるって……」
「悪い? ここゼフィーリアじゃね、つっこみ一つもバカにしちゃいけないのよっ」
 それこそもう、姉ちゃんのつっこみなんて、あたしのスリッパストラッシュなんて可愛く見えちゃうほどなんだから。
「べつにつっこみぐらいどうでも……」
「つっこみをバカにする者はつっこみに泣くわよ」
 自分でもよくわからない理論だとは思ったのだが、ガウリイは考え込むように口を閉じた。少しは頭を使えばいいんだ、こいつは。
 労働の後のアイスティーを味わっていると、外の剣戟の音が無くなっているのに気づく。
「ま、こんなところかしらね。初めよりはマシになったんじゃない?」
 開けた窓から、風にのって声が聞こえてくる。
 楽しげにふふんっと笑う姉ちゃんの顔は、あたしもよく見覚えのあるものだった。
 あたしがまだ幼い頃。剣にしろ掃除にしろ料理にしろ、とにかく姉ちゃんに扱かれっ放しの日々。
 姉ちゃんはとにかく厳しかったけど、あたしが上達したのがわかると、よくあんな表情をしたものだ。
「僕、少しは強くなったですか?」
「強さの定義は人それぞれだから、それはこの場で私が一言で答えられるものじゃないわ」
 ロナの単純な問いに、姉ちゃんはそんな、とても七歳児にはわからないであろう返事を返した。
「……ルナお姉さんの言ってること、よくわかりません」
 案の定、ロナは首をかしげる。
「ただ力があることだけが強いというわけではないってことよ。人にはもっと大事なものがあるわ。
 その点でいけば、この世界に弱い人は山ほどいるけど、同時に強い人もたくさんいるってことね」
「ルナお姉さん強いです。あと、ママとパパも」
 姉ちゃんは、ふっと笑っただけだった。
「戦うことはいいことではないわ。戦わずに済むのなら、それに越したことはないの。可能ならば戦いは避けなさい。
 命を懸けることが男の美学とか何とか言う奴がいるけど、あんなのはただのバカだわ。畑の肥やしにもなりはしない、愚かな古典的ロマンに捕らわれてるだけね」
「でも、戦わなきゃいけない時ってあります」
 神妙な顔でロナは言う。幼い顔立ちに、精一杯の力を込めている。
 まだ幼い、十分に親の庇護を受けて文句ない年の子供に、そんな達観したことを言わせているのが悲しくて。
 同時に、多分この子は、姉ちゃんの言いたがっている本当の強さとかそんなものを、いずれわかってくれるんだろうなとも思う。
「ええ、そうね。避けられない戦いというのはあるわ。とくに、私やあなた、それに……あなたの両親のような人間にとってはね」
 う゛……何か、胸に痛い言葉……
「でも、人間死んだら終わりだということよ。命をかけてまで為すべき何かがあるというのは、確かに素晴らしいことよね。
 だけど、人の命はその人だけのものではない。その人を生んだ親の、友達の、そして周りのものすべての命なのよ。
 それを簡単に賭けて、あげく死ぬようなことは止めなさい。あなたが死んだ時、悲しむ人のことを考えることができれば、それはそう難しいことではないはずよ」
 命、っていうのは。目に見えるようで見えないもので。でも、とてもとても大切なもの。
 あたしは生きるために今までたくさんの人を殺してきたし、あたしの巻き添えで死んだ人もたくさんいる。
 あたし一人が生きるために、途方もない命が失われてきた。
 だけど、だからといって、あたしは死ぬことはできない。そんなことをしても何にもならないとか、自己満足に過ぎないとか、そんなことではなくて、ただ単にあたしが死にたくないから死ねない。それだけ。
 単純なようで奥が深い。
 多分、生きるってそんなことの繰り返しなんだと思う。
「ルナさんて、さ」
 黙っていたガウリイが、ぽつり、と口を開く。
「何かやっぱ、いい人で、すごい人だよなぁ」
「……ま、あたしの姉ちゃんだから」
「そっか」
 そこで納得されるのは、いいんだか悪いんだかよくわからないんだけど。
 姉ちゃんの良さってのは、人にはすごく説明しづらい。姉ちゃんの妹に生まれて、世間の目も自分のコンプレックスも、何よりお仕置きが死ぬより恐ろしかったり、色々と嫌なことも多かったけど……っつーか、思い出すのって、そんな辛いことばっかな辺りが我ながら寂しすぎたりするんだけど。
 でも、それでも、姉ちゃんのことが嫌いになれないのは、好きなのは、多分こーゆーとこがあるから。
 自分の場所を持っていて、真っ直ぐに前を見詰めている姿勢が、あたしはすごく好きなんだろう。
 それを、ガウリイはわかってくれてる……よーな気がする。相変わらず、部分的に鋭い奴だから。
「でも―――」
 まっすぐに姉ちゃんの目を見上げて、ロナは言った。
「どうしてもゆずれないものがあって、それを守るためには、死んじゃうかもしれないって時には……ルナお姉さんはどうしますか?」
 真っ直ぐな瞳だった。子供特有の、何の混じり気もない双眸。
 だけどそこに浮かぶのは真摯な輝きだったから、姉ちゃんも真面目に受け止めたのだろう。
「自分にできることをするわね」
「それで死んじゃっても?」
「ええ、するでしょうね」
「さっき言ってたことと違くないですか?」
 矛盾している、と言いたいのだろう。
「自分自身に嘘はつけないからよ。いつでも、大事なのは心だから」
「心…」
 何かを考え込むように、ロナは黙りこんだ。何を思っているのか、あたしには全然わからない。
 難しいことを言っていると、あたしにもわかる。精神論なんて、それこそ人それぞれなんだから。
 とくにあたしみたいに、色々理論付けすることを得意とする人間には、それこそいくつもの考え方があって困る。
 こーゆーの、ガウリイなら、それこそ純粋といおうか単純といおうかだから、一言ずばっとで済ませてくれるんだろうけど。
「心を大事にして、それで死ぬのはいいんですか」
「良くはないわね。だけど私は」
 姉ちゃんは笑った。
 妹のあたしから見ても、思わず見惚れるような微笑。
「―――自分に真っ直ぐでいたいから、例え後にだれが泣くことになろうとも、死ぬことを恐れはしないわ。きっとね」
 守りたいものがある時には、それこそ、何もかもがどうでもよくなってしまう。
 それこそ。世界、さえも。



 ***



 愛用の剣を持って家へ入ってきた姉ちゃんは、見るからにご機嫌といった感じであった。
 そして大抵……姉ちゃんがそんな様子の時には、あたしに、よからぬことが降りかかってくるのである。
「そろそろ良いかしらね」
 いいって……いいって……何が?
「ね、姉ちゃん…?」
 人間の本能とでもいうのだろうか。わけもなく悪寒を覚えたあたしに、姉ちゃんはただふふんっと笑うだけ。
「ま、楽しみにしてなさいな、リナ」
「た、楽しみって、何が!?」
 姉ちゃんは答えない。いや、もちろん期待なんてしてはいなかったけれど。
 だけどだけど、そんな、鼻歌なんてとばしながら歩いてゆく姉ちゃんを見ると、わけもなく逃げ出したくなってしまうんだから仕方ない。
「おーい、リナ。何かあんのか?」
「……ええ。『何か』、あるんでしょうね……」
 答えるあたしの声は、我ながらびっくりするほどには疲労感に溢れていた。



 そして翌日の朝は、あたしの悲鳴から始まることとなる。