人魚姫 番外編
Intermission 〜遠い昔の思い出〜

前編







 海に住む者以外立ち入る事の許されない深海に、それはひっそりと建っていた。
 海を、そして全ての水の力を司る“海の宝珠”。それを奉る海底の神殿。そこはかつて無い緊張感に包まれていた。
 この神殿から“海の宝珠”が失われて久しい。ゆえに各地で起き始めた水の乱れはかなり進んでいた。
 海は荒れ、各地で異常な旱魃や洪水が頻発している。
 そして何より、この状態を正す事の出来る唯一の王女は魔の者によって連れ去られてしまっていた。


 神殿の奥の一室。そこにルナは独りでいた。
 すでに今出来る事は全て行った。今は彼の青年を信じ、待つ事が唯一の彼女の仕事だった。
「リナ………」
 ここは神殿の中の妹の部屋。そして、かつてこの部屋を使っていたのは妹を産んですぐ命を落とした母だった。


               ★ ★ ★


 宮殿はかつて無い喧騒で満たされていた。宮殿の奥深くで私は自分を守るマーメイドの部隊と共に戦いが終わるのをじっと待っていた。
 当時、私は四歳。
 まだ自分を守る事すら出来ない私は、ただ戦いの終わる時を守られながら待つ事しか出来なかった。
「ご帰還!!ご帰還!!」
 遠くから響いてきた勝ち鬨と王と女王の帰還を告げる声に私は弾かれたように泳ぎ出した。その後を護衛の人魚たちが続く。
「母様!」
 広間に飛びこんだ私の目に飛び込んだのは、傷ついた母の姿だった。
「母様、母様!」
「ルナ………」
 縋りついて泣きじゃくる私に、母は付き従う女王親衛隊に支えられながら抱きしめていた小さな小さな人魚を、そっと私の腕に渡した。
 その人魚はまだ産まれてまもないようだった。見た事の無い真紅の鱗を持つ人魚。
「その子はリナ……貴女の妹よ……」
「妹……?」
 母はふわりと微笑んだ。幼い私の目にもそれは酷く弱々しく儚げに見えたものだった。
「そう。……お願いね、リナを守ってあげて。その子はとても重い宿命を背負って産まれてきた……貴女のたった一人の妹を……」
「うん!ちゃんと守る!約束する!!」
 ずっと待っていた。弟か妹が産まれる日を。
 けれど、それは悲しい出来事の前触れとなってしまっていた。
 ………母が産まれたばかりの妹を、リナを守るために深く傷ついていた事。そして………


 ────母が息を引き取ったのは、それから三日後の事だった。


                ★ ★ ★


「ねえちゃ、ねえちゃ、どこ?」
 私はこっそり溜め息をついた。まただ。
「ねえちゃ、ねえちゃ?」
「リナ」
 いつもいつも私の後を追いかけてくる小さな紅の人魚。母が私に託したたった一人の妹。
 けれど、当時七歳の私にとって、妹はいつもいつもつきまとう煩わしい存在でしかなかった。
 振り返るとやっと一人で泳ぎ回れるようになったばかりのリナが一生懸命近寄ってきた。
「ねえちゃ、どこいくの?」
「リナが行けない所」
「えーっ」
 リナはいつも私について回っていた。父はほとんど城にいるため一緒にいた記憶は私も少ない。まだ小さなリナが私の後をついて回るのも無理のないことだった。
 もし私とリナの立場が反対だったなら、間違いなく私もリナの後をついて回っただろう。
 それでも私はリナから離れようとした。
 あのころの私は……リナが嫌いだった。
 母が死んだのは生まれたばかりのリナを庇ったため。だから……母を殺したのはリナ。この子がいたから母は死ななければならなくなった。
 今ならそれがどんなに間違った考えなのかよく分かる。でも当時の私はその考えに凝り固まっていた。
「ついてこないで」
「ねえちゃー………」
 今にも泣き出しそうなリナの声を聞きながら、私はリナをそこに残して泳ぎ去った。


 あの事件が起きたのは、私に邪険にあしらわれながらもいつものようにリナがついてきた時の事だった。
 あの時私は、リナがついてきている事を知りつつ流れの速い所に向かっていた。まだリナでは渡ることの出来ない場所。
 そこが自分の力では通れない所だということは、リナにも分かったようだった。困ったように海流の手前で立ちつくしている。
 海流を横切りきったところで私は振り返った。
「ねえちゃ……」
「……あんたが、一人でここに来られたら遊んであげる。でも来られなかったら……もう二度と私に付きまとわないで」
 私はそう言い残し、その場から離れた。
 ……自分の言った事が、どんな事態を引き起こすかも知らずに……


 ひときしり満足するまで遊び回った私が城に戻った時、リナはいなかった。
 リナが私と一緒ではなかったと知った途端、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 私は悟った。リナは私の後を追ったのだ。
 まだようやく泳げるようになったばかりのあの子が、あの急流を乗り切ることは出来ない。
 私は血の気が引いた。
 もうすぐ暗くなる。
 私は城を飛び出した。誰かが声をかけたが、私の耳には届かなかった。
 早く。一刻も早く。
 あの子にとって頼れる相手は私しかいなかったのに。
 母から、リナをお願いと頼まれていたのに。私には母に抱きしめてもらった思い出がある。でもあの子は……リナは母親を知らない。あの子には母親の思い出そのものがないのに。
 私があの子にしていたのはただの八つ当たり。母が死んだのはリナのせいではないのに。
 自分の勝手な思いで、私は、リナを危険にさらした。


 あの場所に着いたとき、辺りはすでに薄暗くなっていた。
 明かりの魔法を唱え、流れにのってリナを探す。
 周囲はどんどん暗くなる。なのにリナは見つからない。
 このままもし見つけられなかったら……
 弱気になる自分を叱咤しながら周囲に目を凝らす。例えどれだけ大変でも、私がリナを見つける。
 そして謝らなければ。
 私のたった一人の妹に。
 いつの間にか周囲は完全に闇に包まれていた。私の作り出した明かりだけがかろうじてすぐ近くだけを照らしている。
「どうしよう……」
 私は途方に暮れてしまった。探そうにもどこを探していいのか分からない。
 その時、不思議な歌声が響いてきた。
 誰かを呼ぶような、あやすような……
 引き寄せられるように歌の方へ向かった私の前に、一頭の巨大なシロナガスクジラがゆったりと佇んでいた。
「この歌……貴方なの……」
 ゆっくりと開かれたクジラの瞳は、慈愛に満ちたものだった。
 ゆっくりと胸鰭が揺れる。そこからひょこんと顔を出したのは……
「ねえちゃ!」
「リナ!?」
 私の顔を見たリナは嬉しそうに瞳を輝かせた。が、不意にその瞳が曇ってしまう。
「リナ?」
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 小さくなってただそう繰り返すリナを私は思いきり抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね、リナ」
「ねえちゃ?」
「リナは悪くない。悪いのは私。ごめんね、リナ……」
 とまどったようにリナは私を見上げた。
「リナを守ってくれてありがとう」
 ふと、私はリナを守ってくれていたシロナガスクジラが微笑んだように見えた。
 ゆっくりと踵を返し、低く歌いながらクジラはその場を去っていった。


 二人で城に戻ると、私は父に呼び出されこっぴどく叱られた。
 でもそれは当然のこと。
 ようやく解放されて自室に戻った私はある物を持ってリナの所へ行った。
 疲れたのだろう、リナはよく眠っている。
「ごめんね、リナ」
 そっと囁き、持ってきた物を取り出す。
 母が私にくれた、形見の銀のペンダント。私はそれを起こさないように彼女の首にかけてやった。
 強力な守護魔法がかけられたペンダント。
「母さんと私……必ず貴女を守るからね。約束するわ、リナ」
 眠るリナにそう誓い、私は部屋を後にした。


                ★ ★ ★


「え?」
「だから。何を考えてるんだか分からないけど、あいつ、あたしに黙って姿を消しちゃったのよ」
 私は戻ってきたリナを迎えていた。てっきり彼女と一緒にあの青年も来るものだと思っていたのに、リナは一人だった。
「で……?」
 私の声音に含まれるものを感じ取ったのだろう、リナは引きつりながら答えた。
「ちゃ、ちゃんと手は打ってるわ。アメリア達も探してくれてるし、海のみんなも手分けして探してくれてる」
「貴女は?」
「あたし?」
 リナはきょとんとした顔をした。
「そう。貴女はどうするつもりかと聞いているのよ」
「探すわ。当たり前じゃない。人任せになんてしないわよ。でもあたし一人じゃ能率が悪いから手伝ってもらってるけど……ダメ?」
 まっすぐに私を見返すリナに、知らず口元が緩む。
「なら、見つけてきなさい。見つけたら首に縄付けて引っ張ってらっしゃい。出来なければ……分かっているとは思うけど?」
「いっ行って来ます!!」
 慌てて飛び出していくリナを私はクスクスと笑いながら見送った。




 後編へ続く